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日曜

少し散歩をした。この時期はは夏のように暑い日もあれば、肌寒い日もあり、気温が乱高下している。今日は日差しは強かったが、若干涼しいくらいのちょうど良い陽気だった。家から少し離れた森のあたりまで歩いていって、特に何もせずそのまま帰った。ここのあたりは、公園でなく、森が残されている。_DSC5037 _DSC5039

宮殿

家から歩いて20分ほどのところにある川沿いの公園に散歩に行った。このあたりに暮らして3年弱になるにも関わらず、この公園には行ったことがなかった。小さいながらもFulham palaceと名のついた宮殿を有する公園で、かなり広い。今日は初夏のように暖かく天気も良かったことから、多くの人が庭にシートを広げてくつろいでいた。宮殿の裏の方にWall gardenという、その名の通り壁に囲われた庭園があり、その壁の裏側に回ると、物静かな林と草原があり、やや穴場らしく、数組の家族や老夫婦がポツポツと座っていた。DSC_0735 DSC_0738 DSC_0739

夏の公園では、ビキニ等の水着を着た若い女性がゴロゴロと寝転んで日焼けをしている光景をよく目にする。日本では、公園でここまで露出の高い格好を目にすることは少ないので、最初は驚いたが、既に日常的な景色となった。半裸の男性も同様にガツガツと日焼けにいそしむ姿が見られる。この壁の裏側も、ややひっそりとしているので、半裸で寝転ぶのにちょうど良いのか、幾人かが日光下にせっせと身体をさらしていた。ボウボウに伸びた青草に埋もれるようにビキニの女性が突っ伏していたので、死んでいるように見えた。

4月

またひと月を押しつぶして書く。漫画、HUNTER HUNTERの冨樫先生ですら長期の沈黙を抜けて連載を再開したというのに、自分程度の人間が書くのをやめているのはどうかと思うという気にはなっていた。

4月8日 またHamburgに行って日帰りで戻った。

4月15日 もろもろお世話になった会社の同僚の方が、次の異動地へ旅立つため、送別会が行われた。

4月17日 上述の同僚の方とその家族とのお別れ会にも参加した。いくつかの家族が集まり、賑やかな会となった。子供らどうしが最後に何度も指切りげんまんをしていた。別れるという現象を、どの程度理解できる年齢なのかどうかは分からないが、ケラケラと笑いながら無邪気かつ執拗にそれを繰り返しており、すでにそれ自体が面白くなってしまって無限のループに入っているようだった。もっとシリアスな別れであれば、子供らのそうした無垢なふるまいが感傷を増幅させるというドラマチックな構図になったと思うが、今回のものは別に今生の別れとなるような深い別れでないので、皆それを笑って見ていた。自分は無表情だったかもしれない。

4月20日 Wimbledonの寿司屋に行った。先月も同僚氏を連れて行ったせいか、店員が顔を覚えていた。声をかける際に、「アニキ」と呼びかけてくる店員だった。

4月23日 Somerset Houseで行われている「PICK ME UP」という若手グラフィック・アート作家のグループ展、活版印刷などを用いたイギリスを代表するプリント作家Alan Kitchingの展示、SONYの主催しているSony World Photography Awardsの展示、の3つを連続して見た。Alan Kitchingの作品はあまりにも素晴らしいものがあった。もともと文字という記号を使っている上に、多色刷りや過剰なレイヤーの重ね合わせを多用する作風のせいか、画面が非常に広く見える。文字がかぶりまくったり、位置が激しく飛んだりしているのに、それでも読め、伝えられるようになっているのはこの画面の中の立体感を完璧に制御できているからなのかとも思う。

その後、St.Pancras駅付近に移動し、マレーシア料理の店に連れて行ってもらった。非常においしかった。

4月27日 父親が来英。これから1週間ほど旅行に出る。今日はヒースローに迎えに行き、自宅近くのパブで食事をした。

4月28日 グラスゴーに飛行機で行き、そこからレンタカーを借りて、フェリーに乗り、スコッチウイスキーの産地として有名なアイラ島に上陸した。

4月29日 朝、アイラ島のすぐ隣の島のジュラ島に渡り、ジュラの蒸留所を見たのち、アイラ島に戻っていくつかの蒸留所を回る。自分はウイスキーのことは良くわからないが、景色がとても素晴らしく、海岸沿いに建つ蒸留所の荒々しい雰囲気が強く印象に残った。

4月30日 アイラ島を出発し、またフェリーに乗って、インヴァレリー、フィーン湖あたりを経由しつつグラスゴーに戻った。

5月1日 グラスゴーを観光。昨年訪れたマッキントッシュのグラスゴー美術大学、Willow tea room、スティーブンホールのReid buildingなどを見たのち、グラスゴー大聖堂や、前回は見られなかったザハ・ハディドの交通博物館などを見た。

5月2日 朝の飛行機でロンドンに戻る。空港の駐車場に停めてあった車のバッテリーが何故か上がっており、駐車場内のサービスセンターにかけこんで助けてもらった。その後、父親のお土産を買うために近所の大型スーパーに出かけたところ、そこでもまたバッテリーがあがり、メンテナンスサービスを呼ぶ羽目になった。バッテリーが根本的に何かおかしくなったようだ。

車をなんとか家に置き、その後、大英博物館を見学した。

5月3日 朝、パディントン駅に荷物を置きに行き、その後グリニッジ天文台に行った。昼頃にはバラ・マーケットに移動し、昼食をとったのち、高層ビルのThe Shardの展望台に登ってロンドンを見渡した。その後水上バスでロンドンアイ付近に移動、ビッグ・ベンやウェストミンスター聖堂などをチラ見したのち、パディントン駅に戻って父親を見送った。今回の旅も様々なものが見れて面白いものだった。特にアイラ島の景色は想像以上に良いものだった。

その後パディントンからハイドパーク内のSerpentine galleryまで歩き、DAS INSTITUTの展示と、HILMA AF KLINTの展示を見た。どちらも、言葉がまだ発明されていない時代の古代の芸術のような雰囲気だった。どちらも何かストーリーのようなものを感じさせるが、それがいまの人類の使う記号で書かれていないので、何かのストーリーがある、ということしか分からない。なんとなく、サーペンタインギャラリーの展示品は、そのようなパラレルワールドの美術といった趣のものが多い気がする。

夕方、壊れた?車のバッテリーを調べに業者が見に来るが、原因が分からず、専門の人をまた明日呼ぶという。

5月4日 車のバッテリーを調べに業者が見に来るが、特殊なバッテリーのため、工場に持って帰って専門の設備でチャージしないといけないとかで、バッテリーを持ち帰り、また後日来るということになった。

5月6日 車のバッテリーが再チャージされて戻ってきた。これで一応直ったのだろうが、また同じように原因不明のバッテリー切れを起こさないか不安になる。

押し潰した日

ここ一月のことを簡潔にまとめて書く。

4月4日 Hamburgでもろもろ業務をし、夜の便でイギリスに戻った。

4月3日 夜、ドイツのHamburgへ行った。深夜に到着し、ホテルで休む。

3月25-29日 イースターホリデーの4連休だったが、インフルエンザらしき風邪を引いて、熱がそうとう出て家でずっと寝ていた。4連休でも治りきらず、次の日も1日休んだ。

3月24日 BrixtonにBATTLESのライブを観に行った。BATTLESは初めて見たが、CD以上のダイナミックなリズムが素晴らしかった。昔のEPが再発された関係で、そこからも数曲やってくれて、昔何十回も聞いた曲を生で聞けた感慨深さがあった。昔、よく聞いていた曲を生で聴くというのは、どのバンドの曲でも、たとえそれがCDより良くなかったとしても、それでも良いものだと思えるような感傷を呼ぶ。

3月23日 会社の社長が日本に帰任することになり、その送別会が開かれた。送別会の余興というかほぼメイン行事として行われたクイズのスライド作成などを手伝った。

3月20日 Biburyと、そこから北に1時間ほど行ったBroadway Towerというところに行った。どちらもWilliamm Morrisに多少なりともゆかりのある地。夕方までには戻ってきて、その後、家の近所の同僚宅にお呼ばれして行った。他の同僚の子供達も集まっており、子らともろもろ遊んだ。

3月18日 日本から出張で来ている人をWimbledonの寿司屋に連れて行った。味はさておき、メニューの写真の撮り方や寿司の盛り付けの仕方、店内のインテリアなど、スカンジナビア系デザインが施されており、日本の寿司屋には存在しないテイストの店なので、面白いだろうと思って連れて行った。

3月14日 去年まで一緒に働いており、今は日本に帰任した同僚のかたが出張で来ており、食事を共にした。久しぶりに色々と話せてよかった。

3月13日 Photographer’s Galleryでいくつかの展示を見た。さまざまな古いプロジェクターを集めて展示した企画展が割と面白かった。

3月12日 人と焼肉屋に行った。日本で牛角をやっている会社がやっている、Kintanという店で、入り口に併設されたバーで立ち食いスタイルを取ると、いろいろなメニューが半額で食べられることを知った。夜まで談笑し、楽しかった。

3月10日 The Lexintonというパブで行われたENEMIESというバンドのライブに行った。ToeやTortoise的なインストのポストロックで、なかなかよかった。

3月9日 同僚たちと会社近くのゴーカートに行った。以外と難しく、何度かスピンして、タイムは最下位を刻んだ。

3月6日 夜にHoxtonのあるホテル内に、Sake Cup Barという、日本のカップ酒を提供するポップアップショップが出ていたので、同僚たちと行ってみた。ワンカップ大関などをはじめ、多くの種類のカップ酒があった。そこの解説によると、カップ酒は1964年の東京オリンピックの際に、観客席で手軽に楽しめる酒として開発されたとのことだった。Sake Barは最終日だったこともあり、割と早めに閉まってしまい、その後イタリア料理屋に場所を移し、談笑などした。

3月5日 人とグラストンベリーへ行った。グラストンベリーはイギリス最大の野外音楽フェスティバルで有名な町だが、それ以外にもパワースポット?として、スピリチュアル方面でも有名な町らしく、街中には多くの魔術的な店があり、何かタロットや石などを売っていた。Glastonbury Torという、小高い丘のうえに立つ塔にも行った。そこから見渡した風景は、とてもよかった。

3月4日 割とよく一緒に仕事をしていた別部署の同僚が会社を去った。送別会が会社近くのパブで催され、夜中までもろもろ話をした。その同僚のサッカー友達が来ており、なぜか合気道、空手などアジアの武術に非常に詳しく、重心移動の話や、体のさばき方などのレクチャーを受けた。面白かったが、ほとんどを忘れた。

ウルム造形大学

金曜、土曜とドイツにいた。金曜はミュンヘンで用事があったが、その翌日の土曜は特に予定がなかったため、戻りの便を夕方遅めのものにしてもらい、ミュンヘンから電車で2時間ほどの距離にあるウルム造形大学校舎を訪れた。個人的にバウハウス周辺のお話が好きなので、バウハウスの後継者のひとつであるこの学校は、ずっと行ってみたいと思っていた。

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ウルム造形大学はデッサウのバウハウスがナチスにより閉校に追い込まれた後、その理念や造形理論に惹かれていたオトル・アイヒャーと、バウハウスで学んだマックス・ビルらによって設立された。1953年に設立されたこの学校は、1968年にはすでに財政難により閉校して今はもうないが、短命ながらも特筆すべき教育を行っていた。

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バウハウスの創立者だったグロピウスがウルム造形大学の設立プランを聞いた時、氏はアイヒャーに「バウハウス・ウルム」という名前にしてはどうかと提案した。しかしアイヒャーはそれを拒否し、バウハウスの名前はあえて使わないようにした。「われわれは意識的にバウハウスから離れようとした」とのちにアイヒャーは書いている。

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バウハウスの目指した、芸術と産業の融合というコンセプトは素晴らしいものだった。工業的合理性のある円や四角、三角などの幾何学形状を駆使して作り上げられた多くの家具やプロダクトは、モダンデザインの原点になった。

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しかしそれらの幾何学形状を使ったデザインは、やがて形式主義的になり、特に純粋幾何学である必要がないものまで、ただ審美的な理由でモダナイズされていった。幾何学的であることへのこだわりが強くなりすぎた。バウハウスで支配力を持っていた教授陣はカンディンスキー、クレー、ファイニンガー、イッテンなどの画家たちであり、彼らは幾何学図形こそ芸術をもっとも精神的に純粋な形で表現出来るものとして、あくまで芸術の純化のために理論を構築していた。幾何学こそが芸術にとってもっとも重要なモチーフであることがどんどん強化され、「形態は機能に従う」という機能主義を標榜していたはずのバウハウスは、しだいに、まず幾何学図形ありきのデザインへと自己目的化していった。

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アイヒャーは、そのように審美的形式主義におちいったバウハウスから距離を置いて、もう一度、産業と芸術の高次の融合を目指そうとした。優れたタイポグラファーだったアイヒャーは、たとえば読みやすいアルファベットのレタリングが、決して正円や二等辺三角形などで構成されていないことを知っていた。科学的な見地に基づく、安定感を作る錯視の調整が施された調和のとれた文字の形状は、純粋幾何学だけでは構成できないものだった。

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工業的合理性を目指しながらも、画家がメインの教授陣で、常に芸術そのものが念頭にあったバウハウスに対し、ウルム造形大学ではテクノロジー学、人文科学、社会学、情報メディア学、計画論などが積極的に取り入れられ、社会活動・産業に芸術やデザインがどのように寄与できるかという試行がなされた。芸術家やデザイナーが、キレイな家や椅子、スプーンなどを作っていただけの時代がすでに終わり、彼らが扱うべき問題はもっと複雑になっているのだから、それに見合った教育プログラムが必要としたウルムのカリキュラムは、とても現代的なものだった。

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ウルムはそうした先進的なカリキュラムを持っていながらも、現実的な社会的要請としては、そのようなデザイナーの活躍の場はまだ少なく、生徒は十分に集まらず、大学を運営する財政はどんどん苦しくなっていった。学生たちや教授陣は、現実に研究成果を実行する場所が十分に与えられないままに、思考実験を繰り返し、複雑化しすぎた問いは答えを持たなくなり、1968年に大学はその幕を閉じた。

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大学はウルム市中心部からやや離れたクーベルクという丘の上に立っており、人里から離れたその校舎は、修道院と呼ばれていたらしい。校舎のテラスからは、青く立体的に霞んでいくウルムの街がほとんど一望でき、理想に満ちた学生たちが、ここで眼下に広がる世界を見ながら、美しい社会について思いを馳せていたらしい…。一時、ここで教授をやっていた杉浦康平によると、学生たちの多くは、感受性が強すぎるあまり理念的に行き過ぎてしまい、現実的な喜怒哀楽のある一般社会との隙間を埋められず、就職したのちに衝突し、疲れてその道を去っていったとの事…。

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この校舎は一部が博物館として保存されてはいるものの、ほとんどが使われていないようだった。一部はなんというか小さな住居棟になっており、老人たちが花を育てたり犬と戯れたりして、サナトリウム的な雰囲気を出していた。

丘の上からの景色、やたら透明感のある直線的な校舎、壁の透明な白さなど…。だいたいの場合、なにか良いものを見ると、美しいという感覚がきているのか、感傷がきているのかよく分からないバグのような気分になるのだが、今回ここにはまさにその感覚がずっと漂っていた。

Lion King

初めてロンドンでミュージカルを見た。演目はライオンキングで、シュールな衣装が多く、楽しめた。特にキリンについては、ダイレクトかつ強引な造形でとても良いと思った。両手両足に竹馬を履いたような格好になっており、演者の体勢維持は難しそうだったが、動きは非常にリアルで、ゆっくり足を上げ下げしながら、パカリ、パカリと移動するさまは本物のようだった。初登場時にはその形状のシュールさに思わず目を持って行かれたが、しばらく見ていると、動きの自然さに、この造形にもかかわらずキリンにしか見えなくなっており、面白かった。

from http://vegasmavens.com/tag/lion-king-costume-design/

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意味

人とBrightonに行った。ロンドンに短期滞在している同僚氏を観光に連れて行く名目で、いくつかアンティークモール等を回った。雨もパラパラと降る寒い日で、海岸沿いは風が相当に暴れており、まっすぐ進めない時もあった。モールで売られているガラクタのようなものは、やはり時折オヤと思う良い雰囲気のものがあったが、いつものように、それを買うことはなかった。買うよりは棄てなくてはならない。DSC_0370

SLAM DUNK

同僚氏のお宅に呼ばれ、氏の部署のメンバーの人々と夕食をともにした。手巻き寿司の材料が用意され、それぞれに作って食べてもらうという時間があったが、ニュージーランド出身のある女性が、ネタを醤油につける際に「醤油にダンクする」という表現を用いており、とても斬新で、心に爽やかな風が吹くのがわかった。

意味

だいたい毎朝、車のガラスが全て凍っており、ヒーターを入れて溶けるまで数分、待っている。溶かすスプレーのようなものも売っているらしいが、それを使うほどでもないかなとも思う。ただ、待っている数分は、人生をただ無駄にしているような感覚も覚える。ふだん数分を無駄に過ごすことなど大量にやっているはずだが、その時は何も思わない。

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古さ

土日と作業、眠るなどしていて家から出なかった。食べ物はあまり家になかったがなんとかなった。土曜日は雨の降る寒い日だったが、日曜は晴れていた。

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深夜になると家の床がパキ、パキと音を立てて軋みはじめる。眠りに落ちるまで聞こえ続けているので夜じゅう鳴っているのかもしれない。自分の部屋の暖房の設定温度と、階下の部屋の温度が違うために温度差で床板の伸縮度合いが違い、軋みを発生させているのではと考えていたが、そんな少しの温度の違いで変わるほどのものでもない気がする。単に古いだけだろう。