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ウルム造形大学

金曜、土曜とドイツにいた。金曜はミュンヘンで用事があったが、その翌日の土曜は特に予定がなかったため、戻りの便を夕方遅めのものにしてもらい、ミュンヘンから電車で2時間ほどの距離にあるウルム造形大学校舎を訪れた。個人的にバウハウス周辺のお話が好きなので、バウハウスの後継者のひとつであるこの学校は、ずっと行ってみたいと思っていた。

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ウルム造形大学はデッサウのバウハウスがナチスにより閉校に追い込まれた後、その理念や造形理論に惹かれていたオトル・アイヒャーと、バウハウスで学んだマックス・ビルらによって設立された。1953年に設立されたこの学校は、1968年にはすでに財政難により閉校して今はもうないが、短命ながらも特筆すべき教育を行っていた。

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バウハウスの創立者だったグロピウスがウルム造形大学の設立プランを聞いた時、氏はアイヒャーに「バウハウス・ウルム」という名前にしてはどうかと提案した。しかしアイヒャーはそれを拒否し、バウハウスの名前はあえて使わないようにした。「われわれは意識的にバウハウスから離れようとした」とのちにアイヒャーは書いている。

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バウハウスの目指した、芸術と産業の融合というコンセプトは素晴らしいものだった。工業的合理性のある円や四角、三角などの幾何学形状を駆使して作り上げられた多くの家具やプロダクトは、モダンデザインの原点になった。

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しかしそれらの幾何学形状を使ったデザインは、やがて形式主義的になり、特に純粋幾何学である必要がないものまで、ただ審美的な理由でモダナイズされていった。幾何学的であることへのこだわりが強くなりすぎた。バウハウスで支配力を持っていた教授陣はカンディンスキー、クレー、ファイニンガー、イッテンなどの画家たちであり、彼らは幾何学図形こそ芸術をもっとも精神的に純粋な形で表現出来るものとして、あくまで芸術の純化のために理論を構築していた。幾何学こそが芸術にとってもっとも重要なモチーフであることがどんどん強化され、「形態は機能に従う」という機能主義を標榜していたはずのバウハウスは、しだいに、まず幾何学図形ありきのデザインへと自己目的化していった。

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アイヒャーは、そのように審美的形式主義におちいったバウハウスから距離を置いて、もう一度、産業と芸術の高次の融合を目指そうとした。優れたタイポグラファーだったアイヒャーは、たとえば読みやすいアルファベットのレタリングが、決して正円や二等辺三角形などで構成されていないことを知っていた。科学的な見地に基づく、安定感を作る錯視の調整が施された調和のとれた文字の形状は、純粋幾何学だけでは構成できないものだった。

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工業的合理性を目指しながらも、画家がメインの教授陣で、常に芸術そのものが念頭にあったバウハウスに対し、ウルム造形大学ではテクノロジー学、人文科学、社会学、情報メディア学、計画論などが積極的に取り入れられ、社会活動・産業に芸術やデザインがどのように寄与できるかという試行がなされた。芸術家やデザイナーが、キレイな家や椅子、スプーンなどを作っていただけの時代がすでに終わり、彼らが扱うべき問題はもっと複雑になっているのだから、それに見合った教育プログラムが必要としたウルムのカリキュラムは、とても現代的なものだった。

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ウルムはそうした先進的なカリキュラムを持っていながらも、現実的な社会的要請としては、そのようなデザイナーの活躍の場はまだ少なく、生徒は十分に集まらず、大学を運営する財政はどんどん苦しくなっていった。学生たちや教授陣は、現実に研究成果を実行する場所が十分に与えられないままに、思考実験を繰り返し、複雑化しすぎた問いは答えを持たなくなり、1968年に大学はその幕を閉じた。

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大学はウルム市中心部からやや離れたクーベルクという丘の上に立っており、人里から離れたその校舎は、修道院と呼ばれていたらしい。校舎のテラスからは、青く立体的に霞んでいくウルムの街がほとんど一望でき、理想に満ちた学生たちが、ここで眼下に広がる世界を見ながら、美しい社会について思いを馳せていたらしい…。一時、ここで教授をやっていた杉浦康平によると、学生たちの多くは、感受性が強すぎるあまり理念的に行き過ぎてしまい、現実的な喜怒哀楽のある一般社会との隙間を埋められず、就職したのちに衝突し、疲れてその道を去っていったとの事…。

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この校舎は一部が博物館として保存されてはいるものの、ほとんどが使われていないようだった。一部はなんというか小さな住居棟になっており、老人たちが花を育てたり犬と戯れたりして、サナトリウム的な雰囲気を出していた。

丘の上からの景色、やたら透明感のある直線的な校舎、壁の透明な白さなど…。だいたいの場合、なにか良いものを見ると、美しいという感覚がきているのか、感傷がきているのかよく分からないバグのような気分になるのだが、今回ここにはまさにその感覚がずっと漂っていた。

Sheffield

SPIN360という展覧会を見るため、Sheffieldというロンドンから電車で2時間ほどの街に行った。これくらい離れている街でも、一番安い席ならば往復で50ポンドしないというのは良い。以前、会った人は、普段はここシェフィールドで一人で働いていて、週に一度だけ会議などでロンドンに来ると言っていた。それで十分らしい。

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展覧会自体は、SPINという、伝統的なスイスタイポグラフィをベースにしたデザインの研究と実践をやっている事務所の作品集の発行に合わせた企画展で、ロンドンで行われたものも先月、見たのだが、今回のもののほうが規模が少し大きく、展示内容も少し違うようだったので、一応見ておきたく、足を運んだ。SPINの作品よりも、SPINの造形言語を作った過去の他者の作品を多く展示していた。記号やピクトグラムも、タイポグラフィの一種として同列に研究しているようだった。

その他、幾つかのギャラリーを回ったが、時間が相当に余ったので、駅のすぐ隣の高台に建つブルータリズム建築の集合住宅を見に行った。既に人は住んでいないようで、駅前の立地にも関わらず巨大な廃墟と化していた。無数の無人の窓に囲まれた人工的な中庭部分で、何人かの子供がセグウェイ的な乗り物で遊んでいて、最後の人類のようだった。

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巨大な建築群の一部はリノベーションされ、売り出しが始まっていた。

その地を後にし、しばらく喫茶店などで時間を消費し、駅に向かうと、その集合住宅方面から黒煙が上がっており、消防車が丘を駆け上がっていくのが、見えた。

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Göteborg 02

最後に、カール・ヨーハン小学校(Karl-Johanskolan)に行った。ここもとても良かった。窓枠や天井が赤や黄色で大胆に着彩されており、それらが風化した黄土色のレンガや、鈍い茶色の光沢の銅板などと相まって、劇的な薄暗がりに生きた感じを与えている気がした。校舎内の落ち着いた闇の中から、明るい校庭へと子供らが飛び出していって、遊んでいた。

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校舎内には、数ステップの段差が随所に設けられていて、その向こうから光が差して、パキパキとした影のシルエットでリズムを作っていた。

この小学校は、アスプルンドの初期の頃の設計なので、全体的に、教会のような、古典的な光の作り方をしているのかもしれないが、丸っこい照明や、弧を描くドアや、アーチのついた階段室など、丸い造形を使って光を回していくという操作がすでに見られた。この人の設計には、異常な造形物、形がとにかく空間を支配するような強い形状というものはないようだ。強烈な形がなくても、光の感じがやはり独特で、幾何学的造形をうまく使いつつ、抽象的な柔らかい光が作り込まれている。この嗜好が、やがて、先に見たような、バクテリア研究所やイェーテボリ裁判所のような、角丸を多用した、あらゆるエッジが溶けて、室内全体に光が回ってふわっと明るくなるというスタイルに到達するのだろう。

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このドアもすごくいいと思った。こういう強い色は、あまり他の設計では使っていないようだったが…。

_DSC2427_DSC2488_DSC2454_DSC8243_DSC8260_DSC8244 _DSC8239夕方の便で、ロンドンに戻った。とりあえず行ってみたという旅にしては、良いものを多く見られたと思う。実は、昔からアスプルンドに特別な関心を抱いていたということは全くなかった。今回、行きやすさ(航空券が安かった)、網羅しやすさ(作品がほぼ全てスウェーデン国内で完結)という観点から、アスプルンドが最適なのではという着想をたまたま得たため、このように急ごしらえで家を出たのだが、うまく吉と出たようだった。

建物を見に行く旅というのは、目的を絞り込みやすく、また移動する理由もあり、訪れた実感も感じやすく、旅に出る理由として成立しやすいので、良い。特定の国へ旅行すること自体が目的になると、その国の特産物を食べ、歴史を見、買い物をし、自然を見て、人を見て、など、どこまでの条件をクリアずれば、その国を見たということになるのか分からず、もろもろやることに追われる感じがして、行く前から面倒になってしまう。建物を見に来たという大義名分があると、たとえば郷土料理を食べなかったとしても、それが目的ではないと自分を納得させることができるので、良い。

一応、今回は宿の側に、手頃で入りやすいスウェーデン料理屋があったので、ミートボールとかソーセージは、食べた。

Göteborg 01

最終日。ストックホルムからイェーテボリに電車移動した。何らかのトラブルで出発時刻が一時間遅れた上に、途中でも何度か止まって、結局2時間近く遅れて到着した。

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時間があまり無くなってしまったので、イェーテボリ北方にあるSankt Olofs kapellという小さな墓地はパスすることにし、イェーテボリ裁判所に向かった。後期アスプルンドの傑作とのことらしかったが、受付の人によると内部は一般公開していないらしく、残念ながらそれを体験することはできなかった。基本的に、この旅自体、突発的なものだったので、そういう下調べの甘さが随所に出ている。

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とはいえ、誰でも入れる受付部分から、断片的にその内部空間をのぞくことができた。あらゆる構成要素の角が緩やかに丸められており、白い大理石に差し込む窓からの明るい光が反射し、全体的にかなり柔らかい雰囲気で美しかった。かなり良い空間であるだろうことが伺えた…。のぞけたのは全体の1割にも満たないのではと思われるが、それでも名作と言われているだけの気配があった。

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Stockholm 08

更にラファエル・モネオ設計の現代美術館にも足を伸ばしたが、すでに相当、疲れてきており、全体をざっと見て、あとはベンチで休んでいた。家具類が全体的に薄くて、派手では無いが品のある素材の組み合わせが、きれいだった。

今回のストックホルム滞在で見た、主要な建物群を全記述するこの試み自体にも疲れ始めている…。もう何時間もこの記事を書き続けている。この行為自体にどれほどの意味があるのかは、知らない。最終日の分がまだ残っている。

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Stockholm 07

その後、ブレーデンベリ・デパート(Bredenbergs varuhus)に行った。これはもはや言われなければアスプルンドの設計とは分からないくらい、これといった特徴が無いので探すのに非常に苦労した。実際は中央駅のすぐ裏手に建っていた。

ブレーデンベリ・デパートはとうの昔にオーナーが変わっており、今はFEETFIRSTという安売りの靴屋が入っていた。内装ももはや原型はなく、階段の手すりなど、ごく一部にオリジナルの意匠が残っていたが、それだけを見たところで特に何も思うところはなかった。女性靴売り場で、手すりの写真をパチパチと撮っていたので、店員から、何やってるんだ?と注意を受けた。
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見落としてしまいそうなレベルの存在感だったが、通用口の横のショーウインドウのところに、このブレーデンベリ・デパートのかつての姿を伝える展示コーナーがあり、そこには竣工当時の写真や、手すりの図面などの資料が置かれていた。また、この建物がどのような経緯を経て、現在に至っているかの説明なども書いてあった。途中で一回、アスプルンドの息子の設計により、外壁材の張り替えなどが行われていたようだ。内装はもはや見るべきものはないとしても、駅裏の一等地にあるこの小さなビルが建て替えられずに残されているということには、関係者の努力を感じなくはなかった…。

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Stockholm 06

その後、エストベリ設計のストックホルム市庁舎(Stockholm City Hall)を訪れた。規模は全然違うものの、外観の雰囲気は確かに大隈講堂に似ている。

ガイドツアーに参加し、内部をもろもろ見ることができた。ガイド氏は「ナショナル・ロマンティシズム」という単語を連発しており、確かにその造形は、ヨーロッパの各方面からもろもろのすぐれた建築様式・美術様式を取り入れつつ、そこにスウェーデンの固有の歴史やシンボルを織り交ぜて独自化させていくというスタイルが貫かれていた。

イタリアや、ドイツなど、それらの様式の本国から見れば、まがい物なのかもしれないが、本流のものよりも、こうした中間的によく分からない異質な文化同士をぐちゃっと混ぜたものの方が面白いことがある。全体的にちょっと過剰で、だから面白い。

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Stockholm 05

墓地を後にし、その近くにあるセント・マークス教会(St.Mark’s church)に行った。アスプルンドと協働して森の葬祭場を設計したレヴェレンツの設計。これが予想以上に良く、開口部の少ない重厚な塊が、なめらかにうねってきれいにグラデーションを作るメインファサードは素晴らしいものがあった。もともと、こういうコンクリートが分厚そうな、朽ち果てきれなかった無用な物のような存在のものは好きなので、目を奪われた。

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メインファサードが、窓の少ない要塞のような趣だったのに対し、裏側に回ると、北欧らしい細い木製サッシの窓と、気持ちのよい割り付けやドアのプロポーション、アクセントの白いペイント壁など、きれいな造作があわられ、その対比が明快で美しかった。

_DSC8193 _DSC8196 _DSC8197この建物に関しても、礼拝室以外は入ることはできなかったが、窓の外からのぞいた内部空間も相当に良さそうだった。レヴェレンツのことは全く知らなかったのだが、ここに来れて良かった。墓地の中の、復活の礼拝堂という建物はレヴェレンツの設計だったが、そこも工事中で全く入ることができなかったのが、残念に思われた。

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2日目。朝早くに、アスプルンド(および共同設計者のレヴェレンツ)の最も有名な設計作品である森の葬祭場(Woodland Cemetery, Skogskyrkogården)に行った。ストックホルム郊外にある巨大な共同墓地で、世界遺産にも登録されている。広大な敷地内に火葬場、礼拝堂、復活の大聖堂など、いくつかの主要な建造物が点在しているのだが、今日はいくつかの葬儀が行われることになっているらしいため、そのどれにも立ち入ることはできなかった。ただ墓地内は誰でも自由に出入りできるようになっており、散歩道のようにも使われていた。
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すでに多くの著作などで言われているように、正門を抜けてから、ゆるやかな丘を登り、火葬場を抜けて、墓標の並ぶ森の中に至るまでの流れ、リズムが非常に静かで感傷的だった。

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アスプルンド自身の墓もここにある。

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礼拝堂に続く門の上部にはレリーフがあり、その中に「今日は私、明日はあなた」という死者からの言葉がラテン語で書かれている。これはその内容の強度、短さから墓碑銘として割と有名なフレーズらしい。確かに簡潔で深く響く。自分が墓碑銘を必要とするときがあれば、これを採用したい。「今日はあなた、明日は私」という逆の言葉が墓地の正門に書かれていたらしいが、見逃した。

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この墓地は建物それ自体もさることながら、墓場と森が完全に一体化していることが特徴になっている。垂直に林立する全長30-50mはあろう樹木に対して、40-60cmくらいの小さな墓標がランダムに置かれていて、そのコントラストが際立っていた。自分の感覚では、墓地というものは、一区画いくらで土地が分譲され、その小さな区画の中に代々が収まっていくというスタイルだが、ここでは、そのような区切りがなく、ひとつの森を全員が共有しているといった感じで、簡単な目印としてささやかに墓標が置かれているものの、皆が大きな森に還っていくという死生観が見てとれた。

とはいえ、人は死後のスタイルさえそれぞれなので、区画化されているエリアも少しあった。また、こことは別に、ひとつの丘が散骨の森となっていた。そこには墓標すらなく、他に比べ樹木の密度が高く、あえて大きく手入れもされていないような少し荒々しい森の姿があった。

_DSC8141_DSC8147 _DSC2110_DSC2108 _DSC8170_DSC8150_DSC2136_DSC21402時間ほどが経過し、朝10時を回ったあたりで墓地を去った。帰り際に、火葬場の煙突から煙が立ち上っているのを見た。

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前2回分の記事もそうだが、このストックホルム中の日記は、写真を狂ったように貼る予定でいるので、これを見ている数少ない人の中でも、携帯電話で見ている人がいたら、重くて辛いかもしれない。

滞在中は食事として、シナモンパンを複数個、胃に入れた。市内のいたるところにセブンイレブンがあるので、そこのものをよく購入していた。どういうわけかシナモンパンがわりと好きなので、いくつか市内のパン屋にも適当に寄ってシナモンパンを購入したが、セブンのやつもパン屋と同等かそれ以上のクオリティがあった気がした。日本でもセブンイレブンのパンには信頼を置いていた。

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ストックホルム中央駅の駅前は、やや古めかしい近代建築がゴツゴツと大量に建っており、誰の設計によるものなのかは知らないが、重くて非常に良かった。どのビルもヨコに広く、縦長のペンシルビルのようなものはあまり無くて、箱のような無機質な表情があり、きれいだと思った。_DSC8106 _DSC2027 _DSC2036_DSC8109

ガムラ・スタンと呼ばれる保存街区には古い街並みが保存されている。王宮などもそこにある。前回、2月に来た時、ざっとこのあたりは見たので、今回は特に用はなく、素通りするだけに終わった。

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市内のホテルはどこも高額だったので、AirBnBを使用して、一般人の家に宿をとった。その人はほとんどセミプロのような感じで、自宅のうち3部屋を旅行者に毎日のように貸しており、殆どホテルにいるのと変わらなかった。

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