走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

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帰宅。

村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。村上春樹の本は一冊も読んだことがなかったので、何となく読んでみた。このタイトルがすでにそれっぽさを感じさせる。中学生だか高校生の頃、実家のトイレに「羊をめぐる冒険」が置いてあったことがあったので最初の数ページを読んだかもしれないが、そのころは次を読み進める気力がなかった。

本は毎年フルマラソンを走り、時には100キロマラソンやトライアスロンにも参加する村上春樹の、完全に生活の一部となった練習の記録と、体の変化の記録をつづったものだった。

自分は昔、陸上部に長く在籍していたので、なんとなく実感として分かるのだが、体を追い込んでいくと、精神とか性格がそれに合わせて変わっていくのが分かる。肉体と精神がちゃんと紐付いているのが分かる。自分は球技が苦手だったので、スポーツの選択肢はあまり無く、小中高と陸上部を選択した。分かりやすい勝ち負けがなく、地味で、個人競技である陸上競技は、練習こそ皆と一緒にやるものの、基本的には孤独なもので、毎日、なんでこんなに走って吐いて苦しんでを繰り返してるんだろう自分は、と思っていた。中学時代までは大会で入賞など、出来ていたので、そういう分かりやすい成果によってまだ救われていたが、高校以降、練習量に反比例して成果は出なくなり、自分の入賞がイメージできなくなってからは、よりその気持ちが強くなった。

陸上の練習は、テクニックを練習するたぐいの練習よりも、ただ単純に肺や筋肉を追い込んでいくというものが大半なので、あまり頭を使う必要がないのだけど、生きている以上、頭が働いてしまうので、自然と、なぜこんなに走るのか、苦しいのか、という答えのない禅問答にはまらざるを得ない環境になる。思春期のほとんどをそれと共に過ごしてきたので、自分が今のような性格になったのは、少なからずそれが影響していると思う。

走ることという単純な運動は、その単純さのために、意味なくいろいろとものごとを考えてしまう。走ることをやめる多くの人は、その退屈さに耐えられないのだと思っている。

本の中で、村上春樹は、走ることはそれほど苦痛でなく、相手も必要とせず性に合っていた、と書いていたが、黙々と走る退屈さのなかで、村上春樹のような小説家が生まれているのは、何となく腑に落ちるものがあった。といって小説を読んだことがないので、パブリックイメージと合致しただけだが…。

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