月別アーカイブ: 2013年3月

Antwarps

帰宅。遅くなったのでそのまま何もせずに布団に入ってしまう。

今日は作業用BGMとしてaus「Antwarps」をよく聴いていた。コロコロとした物音サンプリングやら哀愁のある和音の感じと、細かいビートなど、こういうエレクトロニカが好きなのは変わらない…。

preco005ベルギーのアントワープには昨年、イギリスに滞在していた際に、1泊2日で少しだけ訪れた。プランタン=モレトゥス印刷博物館を見に行くためだった。中世の印刷所がそのまま保存されている博物館で、古い活字や印刷機がきれいに眠っていた。

 

ゼブンイレブンのアルバイト募集

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祝日。午前中に雑事を済ませ、午後から買い物に出る。

自分の勤務する会社は、特に服装の既定がない会社なのだが、普段自分はジーンズを履いていっていなかった。学生の時は普通にそうとうジーンズで過ごしていたが、なぜかあまり履かなくなった。

普段から、人生で合理化できるところはなるべくしたいと思っていて、洗濯乾燥機も使うし、食洗機も導入できれば欲しいし、掃除ロボットルンバも欲しい。その一環で、ジーンズは汎用性が限りなく高く、いつも同じようなものを着用していたとしても問題ないアイテムなので、これはやはり履いておくのが合理的なような気がし、買いに出た。

家の近くのコンビニにアルバイト募集の張り紙が貼ってある。これが秀逸な出来ばえ。左のアニメのキャラクターは人気アニメ「けいおん!」の脇役キャラクター。けいおん!でのキャンペーンの権利はローソンが持っているはずなので、おそらく店が勝手にやっているのだろうが、あえてこのキャラクタを選択してくるセンスは面白い。さらに面白いのは横の手描きの絵で、独特のドヤ顔とポージング、さらに湯気の描写などが技巧的で微妙にうまいのも気になる。この二枚が並んでいるのが妙にシュールで目を引く。フランチャイズ系のコンビニは、経営している家族の誰かの趣味性がふいに漏れ出しているケースがままあるのでおもしろい…。

走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

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帰宅。

村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。村上春樹の本は一冊も読んだことがなかったので、何となく読んでみた。このタイトルがすでにそれっぽさを感じさせる。中学生だか高校生の頃、実家のトイレに「羊をめぐる冒険」が置いてあったことがあったので最初の数ページを読んだかもしれないが、そのころは次を読み進める気力がなかった。

本は毎年フルマラソンを走り、時には100キロマラソンやトライアスロンにも参加する村上春樹の、完全に生活の一部となった練習の記録と、体の変化の記録をつづったものだった。

自分は昔、陸上部に長く在籍していたので、なんとなく実感として分かるのだが、体を追い込んでいくと、精神とか性格がそれに合わせて変わっていくのが分かる。肉体と精神がちゃんと紐付いているのが分かる。自分は球技が苦手だったので、スポーツの選択肢はあまり無く、小中高と陸上部を選択した。分かりやすい勝ち負けがなく、地味で、個人競技である陸上競技は、練習こそ皆と一緒にやるものの、基本的には孤独なもので、毎日、なんでこんなに走って吐いて苦しんでを繰り返してるんだろう自分は、と思っていた。中学時代までは大会で入賞など、出来ていたので、そういう分かりやすい成果によってまだ救われていたが、高校以降、練習量に反比例して成果は出なくなり、自分の入賞がイメージできなくなってからは、よりその気持ちが強くなった。

陸上の練習は、テクニックを練習するたぐいの練習よりも、ただ単純に肺や筋肉を追い込んでいくというものが大半なので、あまり頭を使う必要がないのだけど、生きている以上、頭が働いてしまうので、自然と、なぜこんなに走るのか、苦しいのか、という答えのない禅問答にはまらざるを得ない環境になる。思春期のほとんどをそれと共に過ごしてきたので、自分が今のような性格になったのは、少なからずそれが影響していると思う。

走ることという単純な運動は、その単純さのために、意味なくいろいろとものごとを考えてしまう。走ることをやめる多くの人は、その退屈さに耐えられないのだと思っている。

本の中で、村上春樹は、走ることはそれほど苦痛でなく、相手も必要とせず性に合っていた、と書いていたが、黙々と走る退屈さのなかで、村上春樹のような小説家が生まれているのは、何となく腑に落ちるものがあった。といって小説を読んだことがないので、パブリックイメージと合致しただけだが…。

送別会

今日は会社を去る方の小さな送別会があった。ずいぶんとお世話になった方だったので別れを寂しく思う。

深夜、暴風と小雨の中、帰宅。家の前で濡れた床材に足を取られて転ぶ。

と、だけを集めたフォント

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朝から食事以外は外出せず、フォントのエンジニアリング的な部分の調べ物をして過ごす。その過程で、以前から何となく作っていた、いろいろな「と」の字形だけを集めたフォントを生成した。

と、だけフォント DOWNLOAD

一応、フォントファイルの形になっており、illustratorなどの「字形」タブから異体字扱いで各種「と」を選択できるようにしてある。OpenTypeのaaltフィーチャーで実装。

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でも日本語フォント特有のエンジニアリングの部分がどうもよく分からず、Adobe社の出しているAFDKO(Adobe Font Developpers Kit OpenType)を使うらしいというところまで分かったが、説明のページを読んでも、(英文しか無いせいもあるが、)よく分からず、なんとなくで生成されている。普通に日本語環境で使えるが、コンピュータ的にはこれは「欧文フォント」と判断されてしまっているようだ。

今回のフォントは、よくタイトルの文字組などで、「と」や「の」といった、接続語だけを特徴的な字形に変えることで、雰囲気を出すという小技のために作られた。現段階では「と」のバリエーションしか収録しておらず、またバリエーションもまだ少ないが、おいおい補充できると良い。

shuchinroku tsukiji kana収録した字形のうち半数程は、日本の近代活字の礎とされる、築地活版印刷所「築地体」、秀英舎活版見本などに掲載の字形をベースに改刻しつつ作成した。最も有名な築地体初号の、一筆書きでないほうの「と」はフリーの築地体初号復刻フォントのMOJもじくみかななどに入っているので、入れなかった。府川充男「聚珍録」という本には、日本の近代の貴重な印刷見本が3,000ページ近く載っている。府川氏が6年間毎日、朝から晩まで国会図書館に通い続け、収集・研究した集大成的な本で、その執念に圧倒される。それをパラパラとめくりながら作業していたが、多くの面白い字形がまだまだたくさんある…。古い活字のもつ独特のうねりは力強くて気持ちいい。「と」ひとつとっても、自分が認識していた文字の形を大幅に超えるものがたくさんあり、よくあるゲシュタルト崩壊がたくさん起きた。

本来、一文字だけしかないフォントなど邪道だと思うが、全てを描き起こす気力が自分にはない。すぐ、あちこちに興味がうつってしまう…。

参考

府川充男 聚珍録データベース
(聚珍録に掲載の全ての図版がデジタル化されていて検索可能。このオープンな姿勢は生粋の研究者の態度のなせるわざかと思う。凄いことだ…。)
http://joao-roiz.jp/FJPMODTYPEF/about/

日本の活字書体名作精選
http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/sample/seisen/seisen.html

秀英体研究
http://www.dnp.co.jp/shueitai/contents.html

iPhoneアプリ秀英体全集
入手困難な古い見本帳がiPhoneアプリとなって蘇っている。これも凄いことだ。
http://www.dnp-digi.com/lab/shueitaicomp/

など

ピコピコ

二度寝、三度寝と繰り返し惰眠にさらわれる。昼過ぎまで…。

午後、汐留のパナソニック電工ミュージアムでやっている「日本の民家」写真展に行く。先日亡くなった建築誌GAの創始者・二川幸夫の写真展。魔力的な感じのする民家の姿が力強い。大学の教授に言われて、とりあえず見に行ってみた民家の強さに訳も分からず心打たれて、日本中をまわって写真を取り続けたとインタビュービデオで氏が言っていたが、理由は問わずとにかく心打たれるものを写真におさめるため飛び回るというのは生涯変わることはなかったようだ。

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次に銀座のクリエイションギャラリー8でやっている「つつみのことわり 伊勢貞丈「包之記」の研究」展に行く。陰と陽の関係性を研究し続けているグラフィックデザイナーの山口信博主宰の折形デザイン研究所の研究発表展。さらに近くのギンザグラフィックギャラリーでの「LIFE 永井一正ポスター展」にも行った。動物の毛や模様を手描きで緻密に埋めていくイラストの画風もさることながら、それを生かす平面構成と色遣いの地力が尋常でなく高く、どれも良かった。ポスターの大きさとイラストの密度感のバランスがちょうど良い感じがする。

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帰りに本屋と古本屋に寄って漫画や適当に目についた本を購入。夕食を田丸というラーメン屋で摂る。ここのラーメンは素朴な中華そばといった味でよい。

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帰宅後、購入した漫画、福満しげゆき「就職難!ゾンビ取りガール1巻」および志村貴子「放浪息子14巻」を読む。福満作品は好きなので結構たくさん読んでいるが、これも面白かった。本作でも、無駄に女性キャラクターの骨盤を強調したパースを多用。放浪息子は年に1回くらいしか単行本が出ないので、新刊が出るたびにストーリーを忘れていて、それでだいたい1巻から全て読み直すという作業をしてしまう。線のきれいさは変わらず。面白い。

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その後、今日古本屋でなんとなく目について購入した、狩野俊「高円寺 古本酒場ものがたり」を読む。高円寺にあるらしい、古本屋と酒場がいっしょになったコクテイルという店の人が書いた本だった。以前、読んだ、内堀弘「石神井書林 日録」という古本屋の店主が書いた本が面白かったので、古本屋ものをまた読んでみたいなと突発的に思った。この本は古本の話はほとんど登場せず、古本酒場に集う人々と店主との交わりを記録している。

石神井書林日録のほうに、確か、古本屋は、不思議な職業で、元なんとか屋の人間だらけ、何かに失敗した人間が最後に流れ着く職業、みたいなことを書いていたような気がする。どんなはみ出した人間でも受け入れられるような何かが業界にあるという。

本の後半の、店の開業から移転までのドキュメント部分は特にそんな感じを彷彿とさせるもので、金がなく、内向的な著者が、勢いで作った古本屋に、どこからか不思議な人々が集ってきて、不安定な精神状態の中で酒におぼれながらも、人の輪の中で店がなんとか続いていく様子を描いている。著者は、自分のような駄目な人間が人に支えられてここまできた、といった感じでその様子を回想しているが、彼を支えた人たちも、やはり同様に、はみ出たり何かが欠けたりした人たちで、それぞれが相互依存の関係にあって物語がうまれている。実際、著者は皆に支えられているというより、皆に献身的に与え続けているようにも見える。もともと人と関わることが得意でないのに、精神をぶっ壊してまで酒場という輪を運営していて、どこからか人が流れてくる…。

自分が、何かに依存することは、克服しなければいけないことだと思い込んでしまったのはいつのことだったのか思い出せない。弱さを見せ合って補い合うような共依存状態って何が悪いことだと思ったのだっけ…。「社会」に出て、学生の頃よりさらに外に出なくなった自分にとってあまりにも遠くてうらやましい感じがした。日記がなぜこんなに長くなるのか。

化石燃料

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最近少し暖かくなってきたので桜の蕾がふくらんでいるようだ。

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帰宅。今日は遅くなる。岐路、何か食べようと思って坂を下っていたが特にこれだという決め手がなく、(本当は行こうと思っていたラーメン屋が既に閉店時間を過ぎていた)オリジン弁当に行く。最近できたようだ。おそらく閉店したビデオ屋の後にできたらしい。

商店街の二階に、カーテン全開でこうこうと明かりのついた部屋に水彩画で魚とか野菜を描いたものが貼ってあるのが見えた。通りからちょうど見える位置の壁に絵を貼りだしてある…ひそかにギャラリーのようにしているのだろうか。

プログラマーをうらやむ

帰宅。

マット・ピアソン著「ジェネラティブ・アート Processingによる実践ガイド」を読む。Processing関連の本は今まで何冊も読んできたが、この本は「実践ガイド」という激しく安っぽい単語をタイトルに冠しているくせに、単なるプログラミング指南書の類ではなく、創発・自律性・オートポイエーシスなどの、パウル・クレーが生涯かけて追い求めていた造形システムを彷彿とさせる話題が並んでいて面白かった。

Processingによる絵画は、昨今ではもはや見慣れてしまった感があることもあり、コンピュータがランダムに描いた抽象的な模様…数学を使った芸術…といった風に思われているふしがあるが、その本質は、別に数学やランダム性を駆使するところにはない。

パウル・クレーは著書の中で、
「点が動いたものが線であり、線が動いたものが面です」
と言っている。

これは当たり前のようでいて、クレー以前の画家達があまり意識的に考えてこなかった重要なテーマだった。

一般的な絵画、つまり風景や人物を描写するという過程において、点や線や面は、目の前の風景や、画家の頭の中にある形を再現するために使われる。画家は正確に、点や線や面をコントロールして、頭の中の造形をなぞる。

その時、点や線や面は、画家に従順な存在としてふるまう。クレーはそれを嫌った。

クレーは、点や線や面に、もっと自分の意識から外れて、勝手に動き出して欲しいと思っていた。生きもののように、キャンバスの上で点が動き、その軌跡が線になり、面になり、色づく…。クレーは、やはり20世紀初頭の人だけあって、その芸術観は、かなりざっくりと言えば、芸術でもって自然や生命の美しさに近づくことという平凡な言葉に回収されてしまうけれど、自然を写し取ったり、幾何学的なコンポジションで遊んだりするのではなく、「自律的に生成されるもの」こそ芸術であると考えたところが圧倒的に新しかった。

そこからのクレーは研究者や科学者のようなアプローチで独自の造形理論を作っていく。点や線、面それ自体が生きもののように「ふるまう」ために画家は何が出来るかと考えて、点の動き方を執拗に言語化して、客観的にプログラムしようとしていく。

例えば、ジグザグの線は「一定距離動いた後、それまでの進行方向から90度進行方向を変え、また一定距離動いた後、マイナス90度進行方向を変え、また一定距離を動く」となり、点線は、「一定距離動いた後、同一の進行方向に一定距離、瞬間移動した後、また一定方向動く」などとなる。

このような動きのストックを大量に作りつつ、2つ以上の点の相互作用に関しても言語化を進めていく。「点と点が衝突したとき、片方の点が180度向きを変える」「3つ以上の点が近しい場所に集まったとき、2つの点は消失する」など…

これらはまさにProcessingなどで行われている画像生成のプロセスと同じだ。点に画家が「ふるまい」をプログラムし、あとはその法則に従って自律的にキャンバス上に絵が作られていく…そのバリエーションの豊かな、組み合わせの巧みさで、クレーは次々と面白い絵を生み出した。

下記は、Processingが、オブジェクトに「ふるまい」を与えてそれを掛け合わせていくことで絵画を生成していく過程がよく分かるムービー。Processingの作者Case Reasの講義のビデオ。

Process Compendium (Introduction) from Casey REAS on Vimeo.

クレーがこのような絵画生成のシステムを採用したのは、絵画を万人に開かれたものにしようとしたからというのもあり、点や線を緻密に従順にコントロールしていくのは、かなりの熟練を要するが、このような自律的システムならば、誰でも、絵画を生み出すことができる。システムの設計でもって芸術をするという感覚は、同じく巨匠モンドリアンにも言えるが、それは長くなるので割愛する。クレーについては、その「ふるまい」を設計するために、キャンバス内に「重さ」「引力」などの独自の係数を導入したり、異次元物質として「文字」などを突っ込んだりとかなり複雑な実験を繰り返しているが、それも面白い。

Processingと、Processingにいたる様々なジェネレイティブ・アートをまとめたこのドキュメントも面白い…。

Hello World! Processing from Ultra_Lab on Vimeo.

オーザック

帰宅。昨夜、中華料理店で食べきれなかった食べ物を包んでもらっていたので、それを食べる。

先日、浜松で買った「アドバルーンニケイコサン」というCDが想像以上に良く、最近、通勤の際によく聞いている。Arab strap、Four carnation, slintあたりのポストロック初期的な、ゆっくりの曲調、単調すぎるドラムと時々入る轟音、にsad感のあるメロディーラインという感じで、それにどことなくいなたい感じが加わっているのが良い…。

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ダック

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会社の取引先の方たちとの飲み会で赤坂へ出かけた。中国茶房8という名前の中華料理屋で、日本風に味付けを調整していない、本国風の味付けの店とのことでとてもおいしかった。チェーン店で都内に何店かあるらしい。昼は500円くらいでランチをやっていて、安かろう悪かろうと感じる人もいるとの事だが、今日食べたもの達は自分にとっては相当においしく感じられた。取引先の方が中国人のかただったので、メニューにない特別な物を頼んでくれたせいもあるのかもしれない。また行きたい。

関係ないが池袋北口はここ数年で急激にチャイナタウン化が進んでいるという。横浜のように観光地化されておらず、リアルな中国人街がどんどん増殖していっているらしい。そこの界隈の中華料理はおいしいらしい。

帰ってしばらく読書をしてから眠った。深夜でも車通りの絶えない山手通りからはよくサイレンの音が響いてくる。