月別アーカイブ: 2013年2月

盛岡

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昨日は盛岡に宿泊した。今日の午後の早い便で東京に戻る。

両親は既に盛岡に何度も来ており、盛岡のだいたいの観光地は回ってしまっていたのと、日曜日でやっているところがあまり多くなかったのとで、限られた場所だけだったが、いくつかの所をテンポ良くまわった。

最初に南部鉄器の工場兼ショップに行った。客がほぼいなかったし、製造工程が見られるコーナーでも職人が日曜休みなのでひとりしか居なかった。すすだらけの工場内に、天窓からさらっと光が入っていて、それに黒い鉄器がさらされて鈍い影と一緒に鎮座していて、それはそれで美しい感じがした。

その後、地酒の店に寄る。ここは観光バスが止まって、人がたくさん居た。そして更にその後、ベアレンビールという地ビールの生産販売所も訪れた。ここは小さな工場で、静かなところだったが、ポツ、ポツ、ポツと、常にひとりずつくらいお客さんが連続して来ている感じで、それぞれビールを箱買いしていったようだった。確かにここのビールはおいしく感じた。館内の説明コーナーによると、10年ほど前から造られているビールのようだ。ドイツから気合いを入れてビールの醸造設備一式を運んで、ビールづくりを始めようと思ったらしいが、運び込んだはいいものの工場の建築許可が降りずに数年、計画が寝かされていたらしい。建築許可とってから設備を運べば良かったのに…しかし勢いを感じた。

その後、宮沢賢治の「注文の多い料理店」を最初に出版した光原社という出版社跡地に行った。併設の喫茶店で、いかにも宮沢賢治の世界といった格好の女性店員がコーヒーを相当丁寧にドリップしたものを飲んだ。

盛岡の規模感が心地よかったが、夕方にはもう東京に戻っていた。

角館

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弟が東北に住んでいる。両親が旅行を兼ねて、その弟に会いに行くことになり、その旅に同行することとなった。両親は昨日金曜日から東北入りし、横手のかまくら祭りを見学したようだが、自分は今日土曜日から合流した。

角館は一面の雪できれいなものだと思った。武家屋敷をちらちらと巡る。その後、田沢湖に場所をうつし、山奥にある乳頭温泉郷に行った。雪の中の露天風呂に入った。髪が、冷気ですぐにパリパリと凍った。雪国らしい痩せた木々の林立する景色が見えた。ふぶいてはいなかったが、50mくらい先は真っ白く霞んでしまって何も見えなくなっていた。湯がぬるかったので長く入ることが出来た。

移動の新幹線で睡眠を取りつつ、夜には弟の住む盛岡に着いた。いきつけの店だという魚料理屋で大量にものを食べた後、さらにお勧めだという近くの焼き肉屋にはしごした。この焼き肉屋のネギタン塩が非常に面白く、刻んだネギを牛タンで包み、ネギでしばって行李のようにした形であらわれた。通常、ネギはタンの上に乗っていて、焼いてひっくり返すときにポロポロと落下するのが常だったが、このソリューションは新しい。肉の中でネギが蒸されて非常においしかった。大同苑という名前の店で聞くところによると六本木にもあるという。六本木のほうは値段が高そうだ。

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五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか

明日から東北に小旅行に出ることになっているので、防寒対策のため、ウルトラライトダウンか何かを買おうと思って、帰宅途中に五反田のユニクロに寄ったが、既に店内の商品はすべて春服に入れ替わっていた。

暖かい服は買えなかったが、重ね着とセーターで何とかなるとは思うので、特に悲観することはなかった。数年前に、似たような格好で真冬の北海道を一週間過ごしたことを思い出していた。とある建築設計事務所にオープンデスクに行っていた。たかだか一週間程度の滞在では、実務的なことは何一つ関われなかった。模型の手伝いや書庫の整理をすることくらいしか出来なかったが、北海道の寒さと、その事務所の空気感は鮮明に覚えている。事務所の夕食当番を自分が担当した日に、リゾットと称して、炊いたご飯を牛乳とコンソメで煮た謎の粥を作って、微妙な反応を得た。

mbv

今日は20時前に帰宅。先日リリースされたばかりの、my bloody valentineの22年ぶりの新譜「mbv」を聴きながら夕食の準備をした。このアルバムは、2月2日に、突然発表があり、その当日中にいきなりダウンロード販売が開始されたという唐突感きわまるもの。アルバムの収録曲は、前作「loveless」のアウトテイク集かと思うほど、22年前と変わっていない音で驚いた。そもそも自分が初めてこのバンドを聴いたのが、lovelessのリリースから10年以上経過した後で、それで十分に強い印象に残ったのだから、もともと時代性とは無縁のバンドだったとも思える。

マイブラを初めて聴いた頃、私はノイズの乗った音楽を非常に好んで聴いていたが、mogwaiのようなゴウゴウと強い音圧を感じる重めのノイズ音(ピンクノイズ的な音)が好きだったので、マイブラのノイズ音(ホワイトノイズ的な音)は全体的に音がこもりすぎていて、凄く軽く感じた。当時は、91年の作品だからマスタリング技術などが未発達でこういう音圧になっているのだろうと解釈していて、この美しさでノイズがもう少し重ければ完璧だったのにもったいないと思っていた記憶があるが、22年ぶりの今作を聴いても音圧は全く変わっていなかった。でもむしろそれが心地よいと感じるように、自分の耳が変わっていた。

梅原大吾

今日は寒い日だった。

会社から帰宅後、昨晩の残りのカレーを温めて遅い夕食を摂る。

最近、会社の同期とストリートファイターという格闘ゲームの話を少しした。そのせいか、本屋に平置きで並んでいた「ハイスコアガール」という漫画がふと目にとまり、読んでみた。格闘ゲームが一世を風靡した90年代に、格ゲーを通じて互いに通じていく男女を描いたラブコメ…。

わずか1,2年のことだったと思うが、あのころは、地元の田舎の小さなスーパーの軒先にさえ格闘ゲームの筐体(NEO GEOのマルチビデオシステム)が置かれていて、皆で群がってゲームを見ていた。自分はあのチュッパチャプスのようなレバーコントローラーがうまく操作できなかったので、基本的にはプレイせずに後ろで見ているのが好きだった。でも隠し必殺技のコマンドやら、隠しキャラの出し方などは詳しく周りに聞き取り調査をして無駄に知っていた。

「ハイスコアガール」は、30歳前後の人の記憶を直撃する時代設定と、すれ違いが中心のストーリーで、感傷が感傷を呼ぶ構造になっている。後悔したり、暗い気持ちになったりする感傷ではなくて、心地よい感傷をおぼえるのは題材があの時代の格ゲーだからなのかもしれない。あの頃、ゲーム廃人同然になった人も多くいたと思うけれど、なぜかあの格闘ゲームブームを体験できたことを後悔している人に今まで会ったことがない。関わり方の大小はあれど、多くの人が、「不思議な、凄い時代だった」という感想をもっていて、たまに話に出ては愛でるように懐かしむ思い出の一つになっているようだ。

「ハイスコアガール」の主人公とヒロインは1991年で小学6年生だから、2013年現在では33歳くらいになっていることになる…。

o sola mio

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今日は両親が上京してきていた。父親の思いつきで、なぜか「はとバス」に乗ることになり、東京駅へと向かった。

はとバスの天井のない二階席から、東京の街を眺めた。普段みない視点から見られるので、意外にもとても面白かった。東京スカイツリーの近くまで行って戻ってくる1時間程度のコースだったけれど、天気も澄んだ晴れの日で気持ちよかった。バスの名はオー・ソラ・ミオという名前で、’O sole mio(オーソレミオ:私の太陽)をもじっていると思われた。

その後、日暮里まで移動し、谷中のあたりを散策して上野まで歩く。谷中は若い人が多く、混んでいた。こだわりの強そうな喫茶店でこだわっているらしいコーヒーを飲んだ。普段コーヒーを飲まないので味の違いは分からなかったが、若干、まろやかだったような気もした。

芸大の近くにある、森商店という、個人作家制作の雑貨を扱う極小の店に寄り、コンビニのアイスクリームスプーンに漆を塗ったものを入手した。

上野から品川へ移動し、品川のアトレで牡蠣を食べて、両親と別れた。はとバスの気持ちよさが本当に想像以上で、面白かった。

北の顔

来週、東北に住む弟のところに行くので、防寒対策でダウンジャケット(かそれに類する物)を買おうと思って街に出た。あまりしっくりくるものがなかった。意味もなく新宿のオカダヤ(という生地・手芸用品店)に寄る。何となく布を見ていると楽しい気分になる。

抹茶

今日は帰宅途中に田丸というラーメン屋に寄ってラーメンライスセットを食べた。この店は素朴なおいしいラーメンが600円で食べられるので良い。ラーメン一杯が800円を超えるのが普通になったのはいつごろからだっけ…

今日は避けられない単調作業をやる必要に迫られたため、音楽を聴いて気を紛らわしながら作業をした。Godspeed you black emperor(という重鎮のポストロックバンド。明らかにかっこ悪い名前は日本の暴走族から取ったという。)が昨年秋に、10年ぶりに出したアルバム’Allelujah! Don’t Bend! Ascend!の全曲リピート再生3週目が終わりかける頃に、作業は終了した。

中目黒

来週に弟の住む東北へ両親と行くことになっているので、防寒性能の高い上着を探しにどこかに出かけようと思った。ネットで見て目星をつけ、中目黒にある店に行ったが、これといったものはなく、ラーメン屋に寄って帰った。ラーメン屋は「食べログ」で見た三ツ矢堂製麺という店…ゆず風味のつけ麺でつけ汁はおいしいと思ったけれども、自分にとっては麺がぼそぼそしているように感じられた。

食べログといえば、PLANETSという雑誌に載っていた、川口いしやという人の、『「食べログ」の研究 —レビューサイトがもたらした「食文化」と「都市」の風景—』という記事が面白かった。このPLANETという本の今回のテーマの一つには、「東京において、地理と文化が結びついていた時代は終わった、では次の時代の東京の文化はどう育ちうるのか…」というものがあって、この食べログの記事もそのテーマを食文化側から考察している。

かつて東京では、寿司なら銀座、焼き肉なら新大久保、というように街と食ジャンルが強くリンクしていた時代があった。この時代、食文化とは土地を楽しむものだった。(一部のジャンルは未だこの関係は残っていると思うけれど…。)

雑誌文化が花開いた8,90年代には、女性同士ならこの店、デートならこの店、というように、用途やライフスタイルによってレストランが紹介されるようになった。とはいえ、この頃は、雑誌○○を読む○○な人は代官山に集まり、雑誌■■を読む■■な人は六本木に集まり、と、雑誌が描いていたライフスタイルはまだ街に結びついていて、街が、同じ経済力や同じ嗜好の人を集める求心力を持っていたから、まだ食文化は街とは切り離せないものだったと思う。この頃の食文化とはステータスやライフスタイルを表すものだった。

この記事は、その後の、ネットコミュニティ発達以後の東京、「食べログ」以後の東京の食文化について、食べログのレビュアー会員へのインタビューを通じて追っている。著者は、人が、「食についてどのように語れるのか」を調べることで、いまの食文化がどうなっているのかを探っている。

歴史的な地理性や、前置きの情報など全く関係なく、食べログはピンポイントでレストランと人をつなぐ。今まで無かった、食を、地理やライフスタイルから切り離して語れる場所が発生した。つまり、雑誌文化では、話題性のある、記号性の強いレストランしか語ることができなかったが、食べログ文化は、話題性もないしおしゃれでもなく立地的なステータス感もない、けれども優良なレストランだったり、味も平凡でこれといった特徴もないが、日常的に「使いやすい」レストランなどを語ることを可能にした。また、既知の有名店についても、余計なステータス感を付加する雑誌的な広告文章でなく、一般人の視点での素直な感想で語ることを可能にした。

また、その語り口も、古参のユーザーこそ、「美味しんぼ」の山岡士郎的な、朗々と食の意味を語り、説いていくようなスタイルだったものが、徐々に、新規ユーザーを中心に、「孤独のグルメ」の井之頭五郎的な、食べているその瞬間を写真とともに、短文で「実況」するというスタイルに移っていっているという。食べログでなくとも、twitterなどで、食べ物の写真に実況のひと言を添えてアップする人は本当に多い。

いずれにしても、食についての語り、つまり食を通じてのコミュニケーションする機会が飛躍的に増え、またその語り方もより自由になったことは確かなようで、この記事に明確な結論めいたものは書かれていないが、いまの食文化とはコミュニケーションの手段のメインストリームのひとつとも言えそうな気がする。

自分は正直なところ、食に強い関心がなかったので、食べログも完全になんとなく見ているだけだったが、この食べログ研究記事は、今までの東京の食文化や、街とライフスタイルの関係、コミュニケーションの変化など、興味深く掘り下げて書いていると思った。