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電車

昨日、今日とベルリンにいた。昼頃の便で帰ってきて、いったん職場に戻り、その後は通常どおり勤務していた。空港から直接、タクシーで来たために、車がなく、家までは電車で帰った。たまたま同僚の人と一緒になり、話しながら帰った。

食べ物

夜に人と待ち合わせてラーメンを食べに行った。外の雨の勢いは強くはなかったが、風の勢いがとても強く、嵐が来ているようだった。場所を変えてパブで1杯だけビールを飲んで、帰る頃には風と雨は止んでいた。行ったラーメン屋というのは一風堂だったので、風が何となく気になった。

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今日は家に何人かが来て談笑していた。人が家に来るのは身内などを除けば極めて珍しいことだった。もろもろの話をし、深夜まで過ごす。そのうちのひとりのかたは今週末にも帰国してしまうので、寂しく感じた。

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画像は最近現れたバグ画像。

ニート

部屋の掃除などしていた。粘着のコロコロテープを大量に消費しながら無限にカーペット上を往復していた。いつだったか大学生の頃の教授が、自分は視力が弱くて風呂場の汚れに気づいておらず、気がつくとカビだらけの中に居たというような事を言っていたが、同様の現象が発生しており、寝室の床に髪の毛がかなり落ちている事に気づいていなかった。髪の毛がコロコロに幾重にも巻きついて、コロコロの皮を剥くのを妨害してきて、何度も変なふうに破れるので、それが全ての気力を奪っていく気がした。

蝉の声

先週末から今週末にかけて、8日間ほどニュージーランドに行く用事があった。片道の移動だけで26時間近くかかり、乗り換えの時間なども含めると30時間以上かかったので、長かった。南半球に行ったのは初めてだった。当たり前だが、季節は逆で、夏だった。

全く関係ないが、正月に実家に帰った際に、こんまり先生のスーパーベストセラー「人生がときめく片付けの魔法」が置いてあったので、読んだ。「ものを捨てるときは、ときめくかどうかで判断する」という謎すぎるフレーズは知っていたので、そのあまりに科学的でない響きに、方法論として、おそらく自分は全く対象外で、花畑的な感性を要求される難読書だと思っており、敬遠していたが、正直興味はあった。読んでみると、片付け指南書というか優れた自己啓発書となっており、面白かった。

こんまりメソッドでは基本的に、ものに別れを告げるタイミングを「耐用年数」でなく、「役目」で判断するという方法をとる。たとえば服について、昔のお気に入りで良く着ていたが、趣味や体型の変化で着なくなったものに対して、その時の自分をときめかせてくれたので、役目を終えた、と考え、たとえば店頭では気に入って買ったが、結局着なかったタンスの肥やしには、自分にはそれが似合わなかった事を分からせてくれたという役目を既に果たした、と考える。ものの寿命を、「役目」を与えることで一つ一つ、終わらせていく。

とにかく現在にへばり付いているものを、全て過去に置いてくることを目指している。先の「結局着なかった服」の例のように、いつか着て元を取ろうといった、過去の失敗を未来に精算させることを、こんまり氏は一切、許していない。

この、ものが役目を終え、過去に置かれるということは、人に、自分が変わっていっていることを自覚させる作用があるようだ。かつて気に入っていたものも、興味から外れ、絶対に必要だったはずのものも、いつのまにか無くて大丈夫になっている事がある。基本的に人は変化を嫌うが、ただ生活しているだけでも人は勝手に変化していってしまう。しかし物事を過去に置かない限り、対比が生まれず、現在の変化を実感することができない。多くの場合、ものごとは現在進行形の時ないしは未来に想定されている時、自分に何も語りかけない。過去に置かれた時のみ、今の自分にとってそれが何だったのかという、意味づけを与えることができる。

全体を通して、こんまり氏が言っている「魔法」というのは多分こういうことっぽいのだが、望む望まずに関わらず、人が変化していくことを自覚した人は、次の変化を恐れなくなる。どうせ変わってしまう事は仕方がないし、結果がどうあれ、それは必ず何らかの「役目」を果たすという認識に立った時、人は新しいことを始めることにあまり躊躇しなくなる。その作用を、人生がときめく魔法と称している。

それ自体はすでに既知の概念だろうとは思う。ただ、この本は、このようなマインドを作りだすために、片付けを機能的な儀式として用いられるような仕組みを解説しているように思え、「人は変われる」という、多くの自己啓発本のメインテーマに、「片付け」という観点から突っ込んでいったことが新鮮だったのではと思う。。。

それはどうあれ、読んでるそばから、ものを全て捨てまくりたいという衝動がなぜか知らないが確かに湧いてきたので、正月休みから戻ったら、片付け祭りを開催しようとその時、心に決めたが、イギリスに戻ってきても結局、何もしなかった。

The Stanley Parable

先日、The Stanley parableというゲームをやった。このあいだのThe Beginner’s Guideと同じ作者によるもの。こちらのほうが制作された年度は早い。

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これもThe Beginner’s Guide同様に、基本的には一人称視点のウォーキングゲームなのだが、やはり、ナレーション音声が全編にわたって入っており、「スタンリーは左のドアに入った」とナレーションが入るところで、あえて右側に入るなど、与えられた筋書きと違う行動を取ることで、どんどん破綻をきたしていくストーリーラインを楽しむという趣旨のゲームになっている。プレイヤーが予定通りに進まないと、ナレーターが混乱し始め、最終的にはキレ出して説教のようなものが展開されたり、ストーリ上、最初に見てはいけないものを見てしまったりすると、これはネタバレだ!目をつぶってくれ!と取り乱し始めたりと、バリエーションが幅広い。普通にナレーション通りに操作すると、15分ほどで物語は完結する。

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The Beginner’s Guide同様に、多層的な物語の構造を持ったゲームなのだが、そのコンセプトの面白さもさることながら、基本ストーリーや、ステージの空間構成全体にやはり何となく、しょぼく、虚無的な雰囲気がずっと漂っているのがとても魅力的に感じる…。

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Space oddity

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David Bowieが昨日、亡くなったというニュースが相当な頻度で繰り返されている。氏が生まれた町Brixtonには昨夜、多くのファンが追悼のために集まり、夜中まで代表曲を合唱するなどして過ごしたようだ。ニュース映像を見る限り、一種の祭りのような状態になっており、別れを惜しむというより単純に騒ぎに便乗しただけの人も多くいたと思う。

自分も完全にそういう人々の一員で、一夜明けた今日、伝説の人物の死というものについて少し見てみたく、全くファンでも無いにも関わらず、Brixtonに少し立ち寄ってみた。映像で見た昨夜のような群衆の姿はすでに無かったが、駅前の壁画の前で多くの人が写真を撮ったり、隣の壁にメッセージを書き付けたりしていた。自分もそれに紛れて、ひっきりなしに人が訪れては花を添え、しばらく立ち尽くして去っていくのを見ていた。特に何も感じることはなかったが、その後代表曲を聴き漁り、Space Oddityという曲が良いということを知った。
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ピザ

日中は家でもろもろ作業をしており、夜は人と会うためにセンターのほうへ行った。3時間ほど夕食を共にし、その後解散した。食べたピザのようなものに辛いチョリソーが大量に使われており、帰宅後に、唇がヒリヒリすることに気づいた。

SIMON DENNY

Serpentine Gallery、Serpentine Sackler Galleryとで二つの展示をみた。

ひとつ目はMICHAEL CRAIG-MARTINという画家のもので、フラットな画面に、電子機器などがアイコンのように簡素なグラフィックで描かれているというものだった。
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ふたつ目はSIMON DENNYという作家の立体作品の展示で、サーバーラックやLANケーブル、Red Bullなどを使用したものや、シリコンバレー系のテック企業のオフィスレイアウト、ホワイトボードに書かれた殴り書きの矢印、様々なワークスタイル解説本にあるようなダイアグラムなどをコラージュしまくった立体作品などがあった。
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どちらもテクノロジーをモチーフにした作風だった。前者はそこらじゅうのウェブサイトで見かけるようなシンプルなアイコンやフラットデザインのカラー、後者は、大量に立ち並ぶ抽象彫刻のようなサーバーラック、テック系企業の至る所で見かけるポストイットが大量に貼られた壁や、パワーポイントで作成された原色だらけの図表、カジュアルな手書きマーカーなど、現代にいつのまにか生まれてしまった新しい「様式」を目ざとく見つけ、それを芸術の文脈で再提示してみるという試みだったように思えた。どちらも文脈操作による芸術表現なので、ぱっと見で美しくて気持ち良いというようなものはなかったが、面白くはあった。

The Beginner’s Guide

The Beginner’s Guideという妙なゲームをやった。

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ゲームなのかドキュメンタリーなのかよく分からない作品なのだが、ストーリーは、「Codaという人物が2008年から2011年にかけて作成した、どれも完成していないように見えるいくつかの個人的なゲームを、その友人であるDaveyという語り手がひとつひとつ意味を読み解きながら解説していく」というもので、プレイヤーは実際にそのCoda氏の残したゲームを、Daveyのナレーションとともに体験していくことになる。この、ゲームとプレイヤーに加えて、ゲームの外からゲームを解説するナレーターがいるというのが非常に新鮮で、多層的な構造が発生している。
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Coda氏は2011年を最後にもうゲームを作ることを辞めてしまっているらしいが、この作られたゲームというのが確かに変で、シューティングゲームなのに敵が一切出てこないものや、後ろ向きにしか歩くことのできない探索もの、ひたすら部屋の片付けを無限ループでやりつづけるもの、「あなたは入っています」と書かれた看板の横を通り過ぎるだけのもの、キューブ頭のマネキンと意味のない答弁を繰り返すだけのもの等、どれも殆どゲームの体を成していない謎なものばかりとなっている。Davey氏はその意味不明なゲーム群に言いようのない魅力を感じ、Codaがまたゲーム作りを再開してくれることを望んでいるらしく、なぜCodaがこれらのゲームを作ったのか、どこが素晴らしいか、新しいか、Codaが何を表現したかったのかということを自らの解釈でどんどんプレイヤーに説明していく。Screen-Shot-2016-01-09-at-23.05.50

Davey自身もゲーム開発者で、ゲームのデータを改造する技術も持っているようで、時には、Codaのゲーム内に本来は不可視のデータとして入っていた不思議なオブジェクト群を紹介して見せてくれたり、Codaのゲーム内で起こる「ただ1時間待つ」といった意味のない指示、過剰な部分をスキップさせて次をすぐ見せてくれたりする。

Screen-Shot-2016-01-05-at-14.23.00 DaveyはCodaのゲームがいかに示唆に富んだものであるのか、それを作ったCoda自身がどんな感情を抱いていたのかを詳細に語っていく。その語りを聞きながら、プレイヤーはCodaのゲームを一通りプレイする。Screen-Shot-2016-01-05-at-14.35.54

最終的に、Codaの2011年作の最後のゲームを紹介していく過程で、プレイヤーはCodaの断片的なメッセージを見つけ、なぜCodaがゲームを作らなくなったのかを、おぼろげながら知ることになる。 Screen-Shot-2016-01-05-at-15.02.21

あくまで個人的なものとして、意図の不明なゲームを作り続けたCodaと、それでもそれを唯一、共有された存在であった友人としてのDaveyと、その意図を解釈し、Codaの代わりに解説を発信しつづける代弁者としてのDaveyと、Daveyから紹介されるがままに、本来は公開されるはずでなかったCodaのゲームを遊ぶプレイヤーとで、関係性が複雑に混じりながら、いま自分がやっているゲームに対する印象が次々と操作されていく。  Screen-Shot-2016-01-05-at-14.50.56

意味のないものを意味ありげに語っていくことの可笑しさを皮肉ったような作品なのだが、Codaのゲームは、意味がないとはいえ、なぜか全体的に異様に悲しい雰囲気に満ちており、よく分からないのにプレイした価値があったと感じさせるものがある。(特に部屋の片付けを無限ループでしつづける作品)それはCodaの孤独を説明しつづけるナレーションが入っていたからなのか、ナレーションなしでもその強度があったのかどうか、分からない。その、行き着く先のない感覚がいつまでも残り続けることが素晴らしく面白かった。

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