カテゴリー別アーカイブ: 美術

終わり

BartlettとAA school(ともにロンドンにある有名な建築専門大学)のSummer showを観に行った。

Bartlettのほうは、一般的な期待を裏切らないゴリゴリとしたデコンストラクションの激しい造形物だらけだった。シンプルなものは一切見当たらないといっていい程、すべての作品が複雑化の一途をたどっていて、飽和に飽和を入れ子していくようなカオスさがあり、それが心地よくはあった。ただ建物としての実直さというか、空間そのものに対しての表現には、あまり関心がないのだろうとは思った。全体的に異常に装飾がつよく、独自の文脈で繋げまくった様々なモチーフ、歴史や社会状況などの物語の集積として、強引に造形化しているので、ある意味では情報化されきっていて、その態度はとても明快だった。もちろん内容は全て、よく分からなかったのだが、内容はもとよりあまり関係なく、態度の表明が目的なのだろうと思った。_DSC9555

図面やパース図などは、3Dモデルの新しいシェーディング方法の展覧会ともいうような感じになっていた…。

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その後、AA schoolのほうにも行った。Bartlettのほうはフィクションっぽく、AA schoolのほうはドキュメンタリーっぽい感じがした。どちらにしても何らかの物語を話そうとしている点では似通っている気がした。一般的に、デザインと呼ばれるようなものは何かしら問題を解決しようとするものが多く、(現代)アートと呼ばれるようなものは問題を提起しようとするものが多いと言われている。これらの設計作品群はそのどちらでもなく、ただ何か物語を作ろうとしていたように、見えた…。

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Scotland 03

3日目は、マッキントッシュがインテリアを設計したWillow Tea Roomを見た。ここも全体的に規律を感じる縦長のストライプと、格子と、薄い紫色のアクセントの配色が明快で、面白かった。

_DSC9521 _DSC9525 _DSC9528 _DSC9534 _DSC9541 _DSC9543 _DSC9546この日は自分は夕方から別な用事があったため、午前中にここ一軒を見たのみで、S氏と別れて先にロンドンに帰った。

夕方からの用事というのはMOGWAIプロデュースによる連続ライブのひとつ、TORTOISEおよびGZAのライブを観に行くというもので、連日動いていて、疲れていて気力が失われつつあったのだが、せっかくなので行った。

TORTOISEは初めて見たのだが、なんというか音が変で、主旋律を出している楽器が殆ど聞こえなかったり、ギターがズレて?聞こえたりして、本当はこんな感じじゃないのだろうなと、思った…。正直、自分は音楽的な演奏技術がどうこうという事はあまり判別ができないのだが、Tortoiseのようなバンドはリズムがカッチリしていて、そのピタッと符丁があっている感じが魅力的でもあるので、特に音の変なバランスが気になってしまった。ドラムセット二台によるドコドコとした強いリズムは気持ちがよかったのだが…。また今度は別な場所で見てみたい。

GZAもその流れで、音が変で何かあまりよく聞こえず、もしかして自分の耳が変で、終わっているのだろうかと疑い始めていた頃、隣で見ていた男が、音がひどくて何言ってるか分からない!、と叫び始め、そのまま音響の人のところに詰め寄って、どうにかしろと喚いていたので、そう感じていたのは自分だけではなかったのだと分かった。

何か、あまり楽しめる感じでもなかったので、せっかくなのだが途中で帰路に着いた…。

Scotland 02

理由は知らないが、この時期のグラスゴーは何故か宿が異常な値段になっていたので、昨夜はAirbnb(という一般人の家の空き部屋を安く旅行者に貸し出すサービス)を使って、グラスゴー市内から15分ほど離れた、とある人の家の空き部屋を予約していた。その人とは昨夜、駅で落ち合って鍵を受け取り、簡単に家の説明を受けて別れた。我々は2泊させてもらったのだが、結局、その人はその間、もろもろ用事もあったようで家に帰ってきておらず、我々の貸切のような形になった。

この日は郊外のHelensburgという海辺の町まで電車で行き、マッキントッシュの最高傑作と言われているヒルハウスを見にいった。_DSC9446 _DSC9454 _DSC9458 _DSC9469 _DSC9467

ここも内部は撮影禁止だったので、写真がない。

外観は正直、特別なところは何もない建物なので、内部写真がないと魅力が全く伝わらないのだが、内部は家具から壁紙から、全体の空間装飾がすべてマッキントッシュの手によるもので、丁寧に律されたプロポーションと色彩がかなりよい感じだった。

実際、マッキントッシュの造形は、有名なハイバックチェアに代表されるように、ちょっと異様に縦長で、全体的に重心が上に寄っていて、ある意味バランスが変なのだが、それが逆に非常に特徴的になっている。格子とストライプが主な造形要素なので、シンプルなのだが、プロポーションの取り方にマッキントッシュの独自性があって、プロポーションでキャラクターを際立たせるというのは、単純なだけに相当に難しいと思われるので、やはり歴史的な巨匠とされる凄みは十分にあった。

その後グラスゴー市内に移動し、予約してあったグラスゴー芸術大学の建物案内ツアーに参加した。ここの校舎もマッキントッシュの代表作だったのだが、昨年火事で半分が消失し、いまも修復中なので中に入ることはできなかった。

このツアーでは、マッキントッシュとは関係ないのだが、スティーブン・ホールの設計のReid buildingという校舎も見学することが出来、これが爽やかな建物で非常に良かった。

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特に建物を貫いている何本かのバズーカのような上下方向への抜けが気持ち良かった。

その後もいくつか市内のマッキントッシュの建物を見て、宿に戻った。まだ外がだいぶ明るかったので、小一時間ほど散歩をした。

初日、この宿のある町に着いた時は、いきなり完全に薬などでキマっている感じのフラフラした若い男が、まっすぐ歩けずにフェンスなどにぶつかりながら徘徊している様を目にし、やばい町だと思ってしまっていたが、散歩をしてみると、以外とそうでもなさそうな感じだったことが分かった。とはいえグラスゴーは全体的に危ない感じがしたことも事実ではあった。

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便利屋 02

日曜。作業などしていた。BBC(のオンライン)でJapan: Earth’s Enchanted Islandsという番組を見た。直で訳すと、日本:地球の魔法にかけられた島、となる。何回かのシリーズもののドキュメンタリーになるようで、この回は「Honshu」と題され、1億の人間が住む島でありながら、いまだ豊かな自然が残り、野生動物が多数暮らすこの地で自然と人がどのように共存しているか、というテーマで紹介がされていた。ダイナミックなアングルや、深いボケ味、スローモーションを多用した映像がやたらと美しかった。BBCのドキュメンタリーは映像それ自体に味があることが多く、よい。

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冒頭から温泉に浸かるサルの慈愛に満ちたような顔が写される。

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佐渡の棚田など。

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木の上で産卵するカエルの生態など。棚田それ自体よりこのカエルに割かれていた尺が多かった。

BBC_Japan_0003_Screen Shot 2015-06-14 at 22.57.51.png BBC_Japan_0005_Screen Shot 2015-06-14 at 22.58.57.png

山から降りてきて作物を強奪するサルと、人との戦い。サルを追い払うために訓練された柴犬が登場する。

BBC_Japan_0006_Screen Shot 2015-06-14 at 23.00.52.pngBBC_Japan_0012_Screen Shot 2015-06-14 at 23.15.45.png-

人里に降りてきたクマを捕獲し、山に戻す活動をしている人々。

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奈良の寺に集うシカのようす。鹿せんべいを観光客からもらうために、多くのシカがお辞儀をマスターしているらしいが、知らなかった。

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川端(かばた)という野菜や食器などを洗う用水地。鯉が放たれており、その鯉が食べかすなどを食べて、水を浄化していくという。これも、知らなかった。

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ホタルと戯れる人々の様子。

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ホタルつながりで、ホタルイカの漁のシーンへと移行する。これもこんな風に光るというのは知らなかった。

BBC_Japan_0009_Screen Shot 2015-06-14 at 23.10.05.png花見など。桜はわずか数日で散ってしまうが、日本にはもののあわれという価値観があり、人々は今もそれを感じることができるとナレーションが入る。

日本関連の番組は結構、よくやっている気がするが、これは切り口がありそうでなかった感じで、よいものだった。言葉による説明は、最低限しか入らないが、映像それ自体にすでに慈しみのような視点がはっきりと入っていて、映像としての強度と表現力がある感じがした…。

Hamburg 2

朝、用事まで少し時間があったので、宿の周辺を散策した。前回に来た際にも少し観たが、エルプ・フィルハーモニーのコンサートホールの工事現場のあたりをぽつぽつと歩いた。雨が降っていた。

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すでに工期は予定より大幅に遅れ、年単位で延び延びになっているらしいが、港の一角に建築物の設計趣旨等を解説するための小さなパビリオンがあり、その中にはコンセプト模型等が置いてあった。波をかたどった造形のようだ。

さらに赤レンガ倉庫群のあたりも少し歩き、宿に戻った。雨は強くはなかったが、霧のようで、全身が湿ってしまって寒かった。倉庫群の建物は100年以上前のものだが、装飾様式のトーンがあまり立体的でなくグラフィカルなので、現代的な目には格好の良いものに見える。感情的な表現でないので、疲れずに観ていられる。自分は、どんどん疲れやすくなっている。
_DSC1647 _DSC1649 _DSC1650 _DSC1651 _DSC1654 _DSC1657 _DSC1665午後、もろもろを終了し、夕方の便でロンドンに帰った。

公園

時差ぼけを軽減しようと思って、日に当たるべきだと考え、Hyde parkに行った。多くの人が日光浴をしていたが、ただ公園を歩くことが退屈だという貧しい心理状況下にあったため、公園内にSerpentine galleryに行った。
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本館では、Leon Golubという画家の展示をやっており、野犬や肉食系の鳥類、軍人、ギャング的な人々など、獰猛な何かが常に画面に入っている感じで、彩色も怖かったのだが、それにもかかわらず全てコミカルな感じがした。ギラついた目や、攻撃的な牙など、すべて、逆に笑えるという雰囲気になっていて良かった。

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from Serpentine gallery website

from Serpentine gallery website

別館のSackler galleryではPascale Marthine Tayouという作家の展示をやっていた。カラフルでチープな日用品・ゴミを再構成してオブジェを作るタイプの作家で、こういう作風は特別に珍しいというわけではないのだろうが、この人のは色彩とか形状が原始的というか古代芸術のような雰囲気があり、時代が一周して現代の素材が太古から掘り起こされたような趣があった。

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夜と霧

機内では、他にも「夜と霧(ヴィクトール・フランクル著 池田香代子訳)」という本を読んだ。

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この本は、心理学者だったユダヤ人の著者が、第二次大戦中に、アウシュビッツをはじめとするナチスの強制収容所に入れられ、過ごした数年間のドキュメント、心の持ちようが書かれた本で、おそらく人が到達した最高レベルの精神的な成熟状態のひとつについて書かれているのだと思うが、思った以上によい内容だった。

強制収容所は、既に知られている通り、人間の尊厳は一切奪われ、労働に意味もなく、また理由もなくあっさりと多数の人間が死んでいくという異常な場所で、そこでの生活は、著者によると、「生きる意味というような素朴な問題からはすでに遠い」ものであって、「生きることに何にも期待がもてない」場所だったようだが、その状況下で、それでもどうやって生きたかということがこの本の主題になる。

本の前半では、所内の絶望的な環境下で、全ての希望や尊厳が人々の中から完全に消滅するまで、体の痛みについて、仲間の死についての事実などを淡々と書き記しており、後半では、それでも生きるとは何かという、内的な精神の到達点それ一点にひたすら収斂していく。「わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろ、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題。考え方の180°の転換が必要だった」「苦しむとはなにかをなしとげること」「苦しみ尽くす」などの激しいワードが登場する。

この、考え方の転換というものは、以前に似たような考え方をユダヤに関する本で読んだ事があった気がした。

たとえば一般的に人は、善い行いをすれば善い事が起こる、とか、努力が結果に結びつく、とか、悪い事をすれば地獄に堕ちる、とか、未来のできごとが現在の行いによって決められると考える。でも実際には、どれだけ善行を積んでも理不尽なまでの不幸が落とされることもあり、有り得ないような苦行に耐えても、良い結果は巡ってこなかったりする。皆から好かれていたような善人もいきなり災害や暴力で消えたりする。これは誰にでも普通にあり得る。
更に、特にこの強制収容所のようなところでは、自分がどれほど努力しようが結果は無意味な死であり、ほとんど考えうる全ての可能性が閉じているので、未来への展望は一切持てなくなる。先にあげた考え方に則ると、現在は常に未来に紐づいていて、未来のために現在があるということと同義なので、未来の可能性が無くなってしまうと、現在も一緒に意味が無くなり、処理できなくなって、死んでしまう。未来のために今を頑張る、という考え方では、この状況を乗りきれず、人生から降りるしかない。

過去が未来を規定する、未来と現在を常にセットで考えるというのは、一般的かつ分かりやすい考え方で、普段、自分もそういうものだと思っているが、実際にこれを徹底しようとすると不思議な状況に陥る。例えば、人に優しくしても裏切られたのはなぜか、とか、あれだけの努力がなぜ報われなかったかというような類いの問いは、やがて、いや実はつい先日に道でアリを踏みつぶして殺したので人以外には冷たかったぞ、とか、努力はしていたが一日3時間は寝ていたぞ、とか、今まで罪と思っていなかったような事柄を無理矢理過去から掘り起こして、だから駄目だったと強引に納得させようとする無限のサルベージ作業に直結していく。

ものの本によると、ユダヤ教ではこの現象のことを「罪が過去からやってくる」と表現するらしいが、現在が常に過去や未来に隷属している感じが、現在が常に未来の犠牲となっている感じが、相対的に現在の存在感が未来より薄くなるその感じが、生きていると言えないのではないか?というのがユダヤ教の根本的なものの見方のひとつとなっているようだ。

未来は、過去や現在がどうであろうが関係なく粛々とやってくる。そのやってきた現実に対して、どのように対応するか、どうそれを考えて乗り越えるかが問われるべきことで、常に重要なのは、現在そのものとなる。基本的に未来とはよく分からないものなので、強制収容所のような既に詰んでいるような状況、未来のために今を頑張る、という考え方では絶対に乗り越えられない状況下でも、それでもその与えられた現実の中で、生きてみせる事が人間を規定あるいは成熟させていくという考え方が、「生きることが私たちから何を期待しているかが問題」というワードに含まれている。

明らかに精神的な高みにあり、山の向こうの話のようで、自分や自分の生き方からまだ随分に遠く、凄まじい本だったという感想しか無いのだが、少なくとも一つの到達点を見る事ができ、良い本だった。

更にもう一冊、将棋関連の本を機内で読んだのだが、この文章があまりに長文化したので、無かった事にする…。

カウンターパンチ

午前中の便で羽田空港を出て、イギリスに戻ってきた。機内で何冊かの本を読んだ。

「カウンターパンチ(フレット・スメイヤーズ著 大曲都市訳)」は非常に面白く、16世紀の金属活字の彫り師が使っていた、今日ではほとんど知られていない、ある道具の存在から、現代にまで通じる書体デザインの基本となる骨格がどのように構成されていったのかを解き明かしていく内容だった。

金属活字を彫る際に、彫刻師たちはアルファベットのo,b,d,n,qなどの中心の空間のサイズを同じにするために、バラツキの出やすい手彫りでなく、カウンターパンチと呼ばれる判子のような道具を使っていた。それは作業効率を大幅に向上させる合理的なものであると同時に、それによって生み出される、統一感ある形状と白と黒のリズムが、書体の読みやすさ、美しさに多大な影響を与えていった。このカウンターパンチは、要は同じサイズの穴を穿つというだけの地味な道具で、かつ、その道具の存在は最終的に印字された活字からは想像する事がとても難しいので、ほとんど存在が知られておらず、重要視もされていなかったが、実はそれこそが書体の基本リズムと骨格を形作っていたということだった。コンセプチュアルな説明でなく、あくまで目に見える即物的な事象から造形の思想と理由を的確に説明していって、鮮やかだった。今までに読んだ書体関連の本の中で最も面白かった。

University of Reading

以前にType Archiveのイベントに行った際に知り合った人が、Reading大学のType Designコースに通っており、講義の内容に興味があったのでもろもろ話を聞いていたところ、大学を少し案内してくれるというので、Readingに行ってきた。

St.Etienne biennale

午後、バスとトラム等を乗り継ぎ、St.Etienneの街に戻ってきた。

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今回のビエンナーレのグラフィック・アイデンティティは地元の美術大学の学生の手によるものらしい。

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メイン会場となっていたのは古い巨大な倉庫のような建物で、その中に、いくつかのテーマに沿って雑多な作品が大量に展示されていた。実際に市販されているような製品の展示ももちろんあったが、どちらかというと現代アートに寄っており、コンセプチュアルなものが多かった。_DSC1133 _DSC1145 _DSC1156 _DSC1161 _DSC1165

効率性や経済性を求めた結果、明らかに異形にもかかわらずスタンダードとなった物体を複数集めて展示しているコーナーがあり、そこにあったLong eggというものに惹かれた。弁当の工場で、同じサイズのゆで卵のスライスを効率よく作るために、このようにいったん白身と黄身を分離し、巻物のような形に整形し直したものが作られているとの事だった。

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メイン会場を見終わり、あとは街の各地に点在する他の展示を見て回ろうと、パンフレットを片手に街を歩き回ったのだが、今日が日曜だったために、ほとんど全ての会場が閉まっており、これ以上何も見る事ができなかった。ヨーロッパの地方都市では日曜は基本的に全ての店が閉まってしまう事を忘れていた。

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夕方、まだ日は出ていたが、宿のあるLyonの街に戻った。リヨンの街中は何も見ていなかったので、少しだけぶらつこうとしたところ、駅前にたむろしていたDQNから火のついたタバコを投げつけられた。幸い、体にあたる事はなかったが、一言(日本語で)何か言おうと思い、数歩近づいていったところで、ふと我に返り、こういう地域のDQNは自分の想像を遥かに超えて頭がやばいので、コロッと刺される可能性すらあると思い、関わるべきでないと考え直し、逃走した。自分は世界でも有数の平和な国から来た。こういう場面では限界まで臆病になっておいて損はないということを忘れるところだった。善悪の概念はもとより死生観があまりにも違うと思われた。

実際にそこそこ名のあるLyonの街ですら、日曜は多くの店が閉まっており、そこら中に暇を持て余した若者のグループが発生して、意味なく体を揺らしたりしていた。駅前のショッピングモールの中も殆どのテナントのシャッターが下りていた。館内のベンチにはどこも誰かが座っていたが、特に何をしている風でもなく、ただ座って時間を潰しているという感じだった。

翌朝、朝7時の便でロンドンへと戻った。
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