Hamburg

_DSC1609早朝の便でハンブルグに来た。もろもろの作業後、夜、人々と食事を取ったのち、何か桜祭り?と呼ばれる日本関連のイベントが行われていたらしく、花火を打ち上げるというので皆で観に行った。ギリギリで間に合わず、会場周辺に向かうタクシーの中から1、2発の大玉を観たのみに終わったが、予期していなかった花火なので、それだけでも心地よい違和感が楽しめて良かった。同行者のうち何人かは、もともとこの花火を観に行く事を予定していたようだったのに、食事が少し長引いて間に合わなかったので、申し訳なかった。

ドイツではレストラン等で人を呼ぶ際、手を上げるのでなく、人差し指を立てるのが良いとされている事を教わった。手のひらを開いて挙げると、ヒトラーへの敬礼のようだというのがその理由らしい。

_DSC1603人々とパブで食事をとった。手羽先風なもの、ホットドック、ローストチキン等、肉方面のラインナップが多い食事になった。

LUBOMYR MELNYK

夕方、LUBOMYR MELNYKというピアニストのライブを聴きに行った。高速のアルペジオをひたすら繰り返しまくる波のような特徴的な作風で、Continuous musicと名付けられているらしかった。そのアルペジオがあまりに早いのと、それにもかかわらずタッチが強いのとで、単音はもはや認識できずに全体として連続した音が壁のように迫ってくる感じがする。ひたすら演奏を早くしていくと、メロディがある地点で別な次元に移行する、というような説明がなされていた。確かに最初はっきりと聴こえていたメロディが、速度がある閾値を超えたところで、音というより巨大なノイズのような鳴りに変化し、またメロディに戻っていくというような感じだった。3曲しか演奏されない短いライブだったが、これは非常に良かった。

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意味ない人

土曜。朝早く起き、作業および読書などしたのち、うっかりと眠りに落ちてしまい目覚めると昼過ぎだった。SAATCHI galleryに行って「PANGAEA II: NEW ART FROM AFRICA AND LATIN AMERICA」という展示を見た。アフリカとラテンアメリカの新しい美術という名目だが、作品のどれも地域性は感じなかった。ヨーロッパの目で選ばれた作品が置いてあるわけだから、そういうものなのかもしれない。

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電気屋をいくつか見て回った後、電車に乗って帰った。

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ビール

同僚の人々との飲み会に参加。もろもろの話をして過ごす。

そのうち一人が、普段の帰宅時に、松本人志のすべらない話というお笑いの番組の録画を繰り返し聴いていると言っており、既に何度も聴いているが、それでも面白いと言っていた。

音楽や美術でも同じようなことがあるが、ある水準に達すると、内容というのが一切関係なくなり、表現そのものだけが核としてあり続けるようになる。何度も聴いているのであれば、話の内容自体は、既に覚えているのだろうから、つまらなくなるのが普通だが、声の大小や口調、間など、話術の表現そのものが面白いのであれば繰り返しても面白いのだろう。

公園

時差ぼけを軽減しようと思って、日に当たるべきだと考え、Hyde parkに行った。多くの人が日光浴をしていたが、ただ公園を歩くことが退屈だという貧しい心理状況下にあったため、公園内にSerpentine galleryに行った。
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本館では、Leon Golubという画家の展示をやっており、野犬や肉食系の鳥類、軍人、ギャング的な人々など、獰猛な何かが常に画面に入っている感じで、彩色も怖かったのだが、それにもかかわらず全てコミカルな感じがした。ギラついた目や、攻撃的な牙など、すべて、逆に笑えるという雰囲気になっていて良かった。

Bite Your Tongue, 2001 HiRes_0

from Serpentine gallery website

from Serpentine gallery website

別館のSackler galleryではPascale Marthine Tayouという作家の展示をやっていた。カラフルでチープな日用品・ゴミを再構成してオブジェを作るタイプの作家で、こういう作風は特別に珍しいというわけではないのだろうが、この人のは色彩とか形状が原始的というか古代芸術のような雰囲気があり、時代が一周して現代の素材が太古から掘り起こされたような趣があった。

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夜と霧

機内では、他にも「夜と霧(ヴィクトール・フランクル著 池田香代子訳)」という本を読んだ。

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この本は、心理学者だったユダヤ人の著者が、第二次大戦中に、アウシュビッツをはじめとするナチスの強制収容所に入れられ、過ごした数年間のドキュメント、心の持ちようが書かれた本で、おそらく人が到達した最高レベルの精神的な成熟状態のひとつについて書かれているのだと思うが、思った以上によい内容だった。

強制収容所は、既に知られている通り、人間の尊厳は一切奪われ、労働に意味もなく、また理由もなくあっさりと多数の人間が死んでいくという異常な場所で、そこでの生活は、著者によると、「生きる意味というような素朴な問題からはすでに遠い」ものであって、「生きることに何にも期待がもてない」場所だったようだが、その状況下で、それでもどうやって生きたかということがこの本の主題になる。

本の前半では、所内の絶望的な環境下で、全ての希望や尊厳が人々の中から完全に消滅するまで、体の痛みについて、仲間の死についての事実などを淡々と書き記しており、後半では、それでも生きるとは何かという、内的な精神の到達点それ一点にひたすら収斂していく。「わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろ、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題。考え方の180°の転換が必要だった」「苦しむとはなにかをなしとげること」「苦しみ尽くす」などの激しいワードが登場する。

この、考え方の転換というものは、以前に似たような考え方をユダヤに関する本で読んだ事があった気がした。

たとえば一般的に人は、善い行いをすれば善い事が起こる、とか、努力が結果に結びつく、とか、悪い事をすれば地獄に堕ちる、とか、未来のできごとが現在の行いによって決められると考える。でも実際には、どれだけ善行を積んでも理不尽なまでの不幸が落とされることもあり、有り得ないような苦行に耐えても、良い結果は巡ってこなかったりする。皆から好かれていたような善人もいきなり災害や暴力で消えたりする。これは誰にでも普通にあり得る。
更に、特にこの強制収容所のようなところでは、自分がどれほど努力しようが結果は無意味な死であり、ほとんど考えうる全ての可能性が閉じているので、未来への展望は一切持てなくなる。先にあげた考え方に則ると、現在は常に未来に紐づいていて、未来のために現在があるということと同義なので、未来の可能性が無くなってしまうと、現在も一緒に意味が無くなり、処理できなくなって、死んでしまう。未来のために今を頑張る、という考え方では、この状況を乗りきれず、人生から降りるしかない。

過去が未来を規定する、未来と現在を常にセットで考えるというのは、一般的かつ分かりやすい考え方で、普段、自分もそういうものだと思っているが、実際にこれを徹底しようとすると不思議な状況に陥る。例えば、人に優しくしても裏切られたのはなぜか、とか、あれだけの努力がなぜ報われなかったかというような類いの問いは、やがて、いや実はつい先日に道でアリを踏みつぶして殺したので人以外には冷たかったぞ、とか、努力はしていたが一日3時間は寝ていたぞ、とか、今まで罪と思っていなかったような事柄を無理矢理過去から掘り起こして、だから駄目だったと強引に納得させようとする無限のサルベージ作業に直結していく。

ものの本によると、ユダヤ教ではこの現象のことを「罪が過去からやってくる」と表現するらしいが、現在が常に過去や未来に隷属している感じが、現在が常に未来の犠牲となっている感じが、相対的に現在の存在感が未来より薄くなるその感じが、生きていると言えないのではないか?というのがユダヤ教の根本的なものの見方のひとつとなっているようだ。

未来は、過去や現在がどうであろうが関係なく粛々とやってくる。そのやってきた現実に対して、どのように対応するか、どうそれを考えて乗り越えるかが問われるべきことで、常に重要なのは、現在そのものとなる。基本的に未来とはよく分からないものなので、強制収容所のような既に詰んでいるような状況、未来のために今を頑張る、という考え方では絶対に乗り越えられない状況下でも、それでもその与えられた現実の中で、生きてみせる事が人間を規定あるいは成熟させていくという考え方が、「生きることが私たちから何を期待しているかが問題」というワードに含まれている。

明らかに精神的な高みにあり、山の向こうの話のようで、自分や自分の生き方からまだ随分に遠く、凄まじい本だったという感想しか無いのだが、少なくとも一つの到達点を見る事ができ、良い本だった。

更にもう一冊、将棋関連の本を機内で読んだのだが、この文章があまりに長文化したので、無かった事にする…。

カウンターパンチ

午前中の便で羽田空港を出て、イギリスに戻ってきた。機内で何冊かの本を読んだ。

「カウンターパンチ(フレット・スメイヤーズ著 大曲都市訳)」は非常に面白く、16世紀の金属活字の彫り師が使っていた、今日ではほとんど知られていない、ある道具の存在から、現代にまで通じる書体デザインの基本となる骨格がどのように構成されていったのかを解き明かしていく内容だった。

金属活字を彫る際に、彫刻師たちはアルファベットのo,b,d,n,qなどの中心の空間のサイズを同じにするために、バラツキの出やすい手彫りでなく、カウンターパンチと呼ばれる判子のような道具を使っていた。それは作業効率を大幅に向上させる合理的なものであると同時に、それによって生み出される、統一感ある形状と白と黒のリズムが、書体の読みやすさ、美しさに多大な影響を与えていった。このカウンターパンチは、要は同じサイズの穴を穿つというだけの地味な道具で、かつ、その道具の存在は最終的に印字された活字からは想像する事がとても難しいので、ほとんど存在が知られておらず、重要視もされていなかったが、実はそれこそが書体の基本リズムと骨格を形作っていたということだった。コンセプチュアルな説明でなく、あくまで目に見える即物的な事象から造形の思想と理由を的確に説明していって、鮮やかだった。今までに読んだ書体関連の本の中で最も面白かった。

一手詰めハンドブック

昼頃に東京に戻ってきて、緊急の用件などが入りしばらく作業をしたのち、いくつかの所用を済ませるため都内をふらふらした。明日の午前中の便で再びイギリスに戻る。東京にいた時間はそう多くなかったために、残念ながら今回は、会うべき全ての人に会う時間はなかった。しかし今回、会う事が出来た人々の大半は、なぜか殆ど久しぶりという感じがせず、2年以上というインターバルを感じなかった。それは良い事のようにも感じられたが、人以外にも、東京や、浜松などの街も、久しぶりという感覚がほとんどなく、2年イギリスにいたという事実も同時に薄れていくような気もした。目が停滞していっているのであれば、根本的な変化をさせなければならないし、違う船に乗る必要があるのだろう。

5月2-7日にかけては、実家のある浜松に帰省していた。兄の息子氏の初節句の祝い等、喜ばしい事も、悲しい事も、もろもろのことがあったが、振り返ってみれば5日間も過ごしたとは思えないほど早く時が過ぎ、総じてこの犬と同じように、寝るか食べるか散歩するかなどしかしていなかったように感じた。

この期間中のいつだったか覚えていないが、産經新聞の「朝の詩」という欄にて、女の人がほおづえをついていたら、子供がそれを真似してほおづえをついたので、その人がふと我に返り、「自分の心の中まで真似される前に」ほおづえを外す、という内容の詩が掲載されていた。

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