ピザ

日中は家でもろもろ作業をしており、夜は人と会うためにセンターのほうへ行った。3時間ほど夕食を共にし、その後解散した。食べたピザのようなものに辛いチョリソーが大量に使われており、帰宅後に、唇がヒリヒリすることに気づいた。

SIMON DENNY

Serpentine Gallery、Serpentine Sackler Galleryとで二つの展示をみた。

ひとつ目はMICHAEL CRAIG-MARTINという画家のもので、フラットな画面に、電子機器などがアイコンのように簡素なグラフィックで描かれているというものだった。
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ふたつ目はSIMON DENNYという作家の立体作品の展示で、サーバーラックやLANケーブル、Red Bullなどを使用したものや、シリコンバレー系のテック企業のオフィスレイアウト、ホワイトボードに書かれた殴り書きの矢印、様々なワークスタイル解説本にあるようなダイアグラムなどをコラージュしまくった立体作品などがあった。
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どちらもテクノロジーをモチーフにした作風だった。前者はそこらじゅうのウェブサイトで見かけるようなシンプルなアイコンやフラットデザインのカラー、後者は、大量に立ち並ぶ抽象彫刻のようなサーバーラック、テック系企業の至る所で見かけるポストイットが大量に貼られた壁や、パワーポイントで作成された原色だらけの図表、カジュアルな手書きマーカーなど、現代にいつのまにか生まれてしまった新しい「様式」を目ざとく見つけ、それを芸術の文脈で再提示してみるという試みだったように思えた。どちらも文脈操作による芸術表現なので、ぱっと見で美しくて気持ち良いというようなものはなかったが、面白くはあった。

The Beginner’s Guide

The Beginner’s Guideという妙なゲームをやった。

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ゲームなのかドキュメンタリーなのかよく分からない作品なのだが、ストーリーは、「Codaという人物が2008年から2011年にかけて作成した、どれも完成していないように見えるいくつかの個人的なゲームを、その友人であるDaveyという語り手がひとつひとつ意味を読み解きながら解説していく」というもので、プレイヤーは実際にそのCoda氏の残したゲームを、Daveyのナレーションとともに体験していくことになる。この、ゲームとプレイヤーに加えて、ゲームの外からゲームを解説するナレーターがいるというのが非常に新鮮で、多層的な構造が発生している。
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Coda氏は2011年を最後にもうゲームを作ることを辞めてしまっているらしいが、この作られたゲームというのが確かに変で、シューティングゲームなのに敵が一切出てこないものや、後ろ向きにしか歩くことのできない探索もの、ひたすら部屋の片付けを無限ループでやりつづけるもの、「あなたは入っています」と書かれた看板の横を通り過ぎるだけのもの、キューブ頭のマネキンと意味のない答弁を繰り返すだけのもの等、どれも殆どゲームの体を成していない謎なものばかりとなっている。Davey氏はその意味不明なゲーム群に言いようのない魅力を感じ、Codaがまたゲーム作りを再開してくれることを望んでいるらしく、なぜCodaがこれらのゲームを作ったのか、どこが素晴らしいか、新しいか、Codaが何を表現したかったのかということを自らの解釈でどんどんプレイヤーに説明していく。Screen-Shot-2016-01-09-at-23.05.50

Davey自身もゲーム開発者で、ゲームのデータを改造する技術も持っているようで、時には、Codaのゲーム内に本来は不可視のデータとして入っていた不思議なオブジェクト群を紹介して見せてくれたり、Codaのゲーム内で起こる「ただ1時間待つ」といった意味のない指示、過剰な部分をスキップさせて次をすぐ見せてくれたりする。

Screen-Shot-2016-01-05-at-14.23.00 DaveyはCodaのゲームがいかに示唆に富んだものであるのか、それを作ったCoda自身がどんな感情を抱いていたのかを詳細に語っていく。その語りを聞きながら、プレイヤーはCodaのゲームを一通りプレイする。Screen-Shot-2016-01-05-at-14.35.54

最終的に、Codaの2011年作の最後のゲームを紹介していく過程で、プレイヤーはCodaの断片的なメッセージを見つけ、なぜCodaがゲームを作らなくなったのかを、おぼろげながら知ることになる。 Screen-Shot-2016-01-05-at-15.02.21

あくまで個人的なものとして、意図の不明なゲームを作り続けたCodaと、それでもそれを唯一、共有された存在であった友人としてのDaveyと、その意図を解釈し、Codaの代わりに解説を発信しつづける代弁者としてのDaveyと、Daveyから紹介されるがままに、本来は公開されるはずでなかったCodaのゲームを遊ぶプレイヤーとで、関係性が複雑に混じりながら、いま自分がやっているゲームに対する印象が次々と操作されていく。  Screen-Shot-2016-01-05-at-14.50.56

意味のないものを意味ありげに語っていくことの可笑しさを皮肉ったような作品なのだが、Codaのゲームは、意味がないとはいえ、なぜか全体的に異様に悲しい雰囲気に満ちており、よく分からないのにプレイした価値があったと感じさせるものがある。(特に部屋の片付けを無限ループでしつづける作品)それはCodaの孤独を説明しつづけるナレーションが入っていたからなのか、ナレーションなしでもその強度があったのかどうか、分からない。その、行き着く先のない感覚がいつまでも残り続けることが素晴らしく面白かった。

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平手

イギリスに戻ってきた。機内ではなんとなく映画を2本観た。特にオヤと思うものはリストになかったのだが、適当に、「バクマン」と「PIXELS」という映画を観た。ストーリーについてはどちらもこれといった感想はなかったが、バクマンの漫画を描くシーンの映像表現は面白いと思った。その後はタブレットで、なんとなく「LaraCraft Go」というパズルゲームをやっていて、解き方に詰まったら、寝ていた。このパズルゲームは3Dのシェーディングの質感が好きで、その絵を見たいがためにやっていた。アニメーションも美しくて良い。ゲームとして楽しいのかどうかはよくわからない。こういう平面的なシェーディングは昨今の流行でもある。

他にも機内エンタテイメントの「将棋」などもやっていたが、自分のろくでもない棋力だと勝つことができなかった。自分の知っているのは初歩中の初歩の原始棒銀という戦法だけで、それで勝てないプログラムには勝つことができない。自分のような初心者にとって、たいていの将棋プログラムは強すぎて、あまり勝負にならない。しかし、そう感じる人は、一定数いるようで、「こまお」という将棋プログラムは、初心者に勝つ喜びを知ってもらうために「弱いコンピュータ将棋」を目指して開発されたらしく、平手でも他のプログラムよりかなり弱く設定されているという。この、こまおの平手が現在、自分の勝てるちょうどくらいのレベルにある。レベルの高いソフトに対して、頭を悩ませるのではなく、ほどほどに張り合えるソフトに対して、やはり最後は結局圧勝して意味なく全ての駒を獲るというような意味のないことに全能感を覚えたりしていて、精神の弱さを感じる。

文章

SNS鬱という現代的な病気がある。Facebookなどで誰か他者のアクティブな投稿を見れば見るほど、それと対比した自らの日常が滲めなものに感じられ、鬱状態に突入していくという現象で、自分も少なからずそういう傾向にあるので、あまりそれらのサービスを頻繁にチェックしないようにしている。いまはどうだか知らないが、Facebookはかつてネガティブな投稿を極力表示させないようにするというアルゴリズムを採用していたので、利用者の一部が、自分以外の人間が全て幸福な状態にあるという強迫観念にかられ激しく精神を病み、フェイスブックのそのアルゴリズムに対して批判が高まったという話も読んだ。いずれもきちんとしたソースに基づく記事なのかは確認していないので、真偽は不明だが、話としては共感できるものがあった。そこから考えが飛翔し、普段、どこへ行った、あれを見たと記録しているこのブログも、誰かを同様に嫌な気分にさせているのではないかという思いが次第に頭を支配し始め、ブログを書くことを辞めていた。しかし新年も始まり、それは行き過ぎた考えだったと思い、またブログを始めることにした。SNSへの投稿には恐怖を感じるが、ブログにはそれがあまりない。SNSのフォーマットで文章を載せるとまるで自分の言葉でないように感じるが、ブログで自分が整えた真っ白なフォーマットの上だと、それを感じない。

John Hoyland

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from Newport street gallery

Newport Street Galleryという、わりと最近できたダミアン・ハーストが運営するギャラリーに行った。John Hoylandというイギリスの抽象画家の展示をやっており、巨大なサイズで大胆かつ明快に色面を切り分けていく表現が非常にダイナミックで気持ち良く、素晴らしかった。ギャラリーの空間自体も、倉庫の大空間を生かした、真っ白で明るい空間に、各部屋をつなぐ開口や上下の吹き抜けがザクザクと穿たれているもので、それ自体、抽象絵画のようなリズムがあって、その中に強い色彩が淡々と置かれている様が強烈だった。

たぶん一枚だけ見ても、あまり印象に残らなかったのではと思うが、この最小限の形状が、見慣れないスケールで連続して、大空間を気持ち良く満たしているのがあまりにも良かったので、何度も部屋を行ったり来たりして、見ていた。

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from Newport street gallery website

RISK

Margateというイギリス東の端にある街のTurner Comtemporaryという美術館に行った。RISKと題された展示をやっており、そのテーマ通り、芸術家がリスクをどのように作品の題材として捉えてきたかというものだった。

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飛行機を炎上させて、その中に防火服を着た作者が搭乗していくという謎の映像や、弓を引き合う男女の映像など、なんというかリスクを直接的に扱った作品が目に付いた。一緒に行っていた友人と、「リスクですね」などと感想を言いあっていたが、それ以外、言いようが無かった。けれどよくわからない面白さがあった。

他にも何か脚立の上から、積み上がったダンボールの上にダイブして、できた大きな凹みを展示してあるものなど謎な作品が結構あった。

その中に紛れて、グルスキーやリヒターなどの作品もあり、それらはリスクとどのような関係にあるのかは分からなかったのだが、テーマ関係なしに、一見して美しいと感じるのはさすがだとは思った。

オノ・ヨーコのパフォーマンスの代表作であるCut Pieceの記録映像も展示されていた。これは若かりし頃のオノヨーコが舞台に無言で座り込んでいて、そこに観客がひとりずつ上がっていって、傍のハサミで服を少しずつ切っていくというパフォーマンスなのだが、やはり強烈な緊張感があり、面白かった。

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from Turner Comtemporary website

ミュンヘン

昨日、今日とMunichに居た。街中を見るような時間が無かったし、移動などすべて用意されたものに同乗していただけなので、街の記憶がほとんどない。同行していた人によると、ミュンヘンはベルリンのようにあまり国際化されていないし、まだ古いドイツの感じが多く残っている場所なのだということだった。ベルリンに比べればどの都市もそのように見えるのではないかと思った。

Ai WeiWei

RAで開催されているAI WeiWei展に行った。会期終了が迫っていたが、非常に人気が高く、チケットが買えない状況が発生していたため、美術館側が、最後の数日間は24時間営業するという措置を取り、同僚のかたがそのチケットを入手してくれた。深夜1時くらいに展示を見るというのは初めてのことだったが、その時間帯にもかかわらずかなり多くの人がおり、関心の高さがうかがえた。

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アイ・ウェイウェイは、周知のように中国人作家でありながら中国社会を批判する非常にドキュメント性の高い作品を作り続けている。数万本の鉄骨を使って作られた波のような立体作品があり、それは中国内陸で大地震が起きた時、手抜き工事のために、多くの建物が倒壊し、本来ならばあり得ない規模の被害・死者を出したことに対してのメッセージとして、倒壊した建物から、むき出しになった鉄骨を一本一本回収し、人の手で打ち直して真っ直ぐにするという作業を数万本分、行って作り上げたというもので、異常な迫力があった。その様子を撮影した映像も上映されており、何人もの市民が協力して、歪みまくった鉄骨を回収、偏執的なまでに叩き上げて直線にしていく作業が記録されていた。ウェイウェイ氏は、自分が中国当局に逮捕されて投獄されていた2、3年の期間にも、その作業が止まっていなかったことに驚いたと話していた。

他には、中国の伝統的な木工技術を駆使したアンティーク家具をコラージュした立体作品も多く展示されており、そうした最高レベルの工芸技術がかつてあったにもかかわらず、現代の中国は、手抜き工事など、粗悪品の代名詞にもなっていることへの対比が示されていた。

氏の基本的な姿勢としては、そうしたかつての中国への憧憬を胸に、それを破壊したのは政府であると断定して、攻撃的な作品でもって批判を続けるというものなのだが、基本的には中国固有の社会背景に根差すものなので、他国人である自分にはこれらの作品を同じ強度で受容することはできない。ただ作品からは、明らかにこの人が異常に怒っているということだけは伝わってくる。訴えている内容は非常にシリアスなのだが、その表現があまりに過剰なので、怒りが突き抜けていて、心地良いとさえ感じる不思議がある。深夜にもかかわらず大量の人が観賞に訪れているように、氏の作品は、世界的に人気が高いようなのだが、パンクを生んだイギリスの人たちは怒りや反抗に対して惹きつけられるものがあるのだろうかとも思った。